オーストリアの、金髪の女の子 オーストリアからのメール↑ 予め指定した「贈り物」
Ich liebe Dich. 我、汝を愛す。
「オーストリア式個人三行広告」
ERWIN
Ich liebe Dich trotzdem!
――
ドイツ語を少しでも囓(かじ)ったことがある人ならば、御存知の筈、これは大変有名なドイツ語文です。
これを発見して、わたしは懐かしくも嬉しくなってしまった。何故か。 日本にいた時、独自に独語の勉強を細々と長年に渡って続けていました。 年季が入っていた、だから、もう習得出来ていたと思っていました。 しかし、実態はどうであったかと言うと、口惜しいかな、 「全然身に付いていなかった!」ということを嫌と言う程思い知らされる機会に何度もぶつかっていたのです。何度挫折し損なったこと だろう!
そうこうするうちに、―――、大体、日本からはウィーン経由ですけれども、 ドイツ語の本場は(ドイツ国だ! と仰る人もいらっしゃるかもしれませんが、話の都合として) 当地、オーストリア国(とさせて頂きます)、リンツにとうとうやって来てしまったのです。何故かって? 話せば長くなるかも知れませんので、それに今回の話題とは直接関係ありませんので、ここでは割愛。
当地にやって来て住むようになってしまっては、昔の言わば恋人とでも言える、 このドイツ語を何とかしなければならないと真剣になりました。本場にあっては逃げることも出来ません!
本腰を入れてお付き合いをまた再開しようとしましたが、くっついたり離れたりと、 一度、いや、一度どころではないですね、何度も繰り返すこと数え切れないほどでしたので、 相手だっていい加減愛想を尽かしてしまったに決まっています。ですから 「今度こそは!」 と本気になって縒(よ)りを戻そうとしましたが、 それはそれは結構大変なことでした。黙々と我慢の上に我慢を重ねて来ました。
一度離れて行ってしまった恋人をまた取り戻そうとするかのように、 (実は自分の方から離れて行った)当地オーストリアでは、ドイツ語習得に「今度こそ! 今度こそは! 」と、くどくももう一度静かな執念を燃やしていたのでした。
例えば、ラジオは朝から晩までつけっぱなしにしてドイツ語の音に耳を慣らしたり、 毎日、新聞(毎日新聞ではありません、念の為 、ここはオーストリア)を手にして、少しでも読めそうなところは読んでみようと眺めてみたり、 実は写真等をさっと眺めているだけでドイツ語文字がぎっしりと詰まった紙面をじっくりと読む気は余り起こらなかったが・・・・・・・、 それでもある日のこと、 わたしでも良く知っていたドイツ語文そのものが目に飛び込んで来たのでした。もう分かりますよね。 とても嬉しくなってしまった。ほう、日常的にもちゃんと使われているのだ、自分にも読める、 自分でも理解出来る、そんなドイツ語だってある、と 。
――
Ich liebe Dich.
そう、言われて気を悪くする人はいない筈。そう、言 って上げる人がいる人は幸せ。
問題は言ってくれる人がいるのか、言ってあげる人がいるのか、 いなければ寂しい限りだ。
▼小さな個人広告、発見!
「あっ、このドイツ語、知ってる!」
偶々(たまたま)、手にしたオーストリアの新聞、そこにちっぽけな広告があった。
否応なしにわたしの目に飛び込んで来た。その感動、分かるでしょうか。
勿論、わたしに向かって言われていたのではない。Erwin、エぁヴィだ。
エぁヴ ィンに向かって、だった。 エぁヴィンは幸せ者だ。
このエぁヴィンって誰だろう? オーストリア人であろう、多分。 何をしでかしてしまったのだろう? 大人? 若者? 子供? または誰?
それにしても、この広告、一体全体、何故に?
そのエぁヴィンという男性に宛てた愛の告白か、愛の打診か、愛の決意表明か、結婚申 し込みか? 愛の確認か?
とにかく、心の底からの叫びではなかろうか、ということが何となく想像される。舞台 裏では何かがあったのだろう。
どうして広告なのか?
―― 面白いというのか、この発想にわたしは 関心を惹かれてしまった。そこで、 わたしなりに自由奔放に想像を逞しゅうして思いを巡らす次第なのだが、はて、さて、はて、これからどうなるものやら。
▼誰が書いたのか?
シャーロック・ホームズの向こうを張って推理してみよう。
良く見ると、この個人広告を書いた人の名前、「誰々から」ということが記されていない。
だから、わたしはこんな風に考えたりもする。つまり、これは男性から男性へ向けて書かれたものかな?
このご時世、ここヨーロッパ、ここオーストリアでも考えられないこともない。ないない、
と二重否定、つまり肯定だ。考えられる。もう考えてしまったが。
「ようエぁヴィン、でもなあ、俺は手前(てめい)をまだ愛してるんだぜ!
どうして俺 から離れようとしたのか?」
男性からだったら、こんな風に言っているのかな。
「ねえエぁヴィン、でもあたしあなたのことまだ愛してる、分かって! 戻ってきて!」
それとも女性から男性へ向けてなのか? 普通に考えたら、そうなるだろう。
どんな思いを込めながらそれを書いたのかその人に代わって、以上、
それぞれ男性から、女性からと想定して心の内を翻訳してみた。
そうそう、サイン、署名がない。
エぁヴィン何某に向けて発せられている、それは分かる。西洋の世界ではサインはその人を代身する程、重要と考えられている。重要だとされるのに、それがどうして抜けているのか?
本人が自分で書いたということは本人が一番良く知っているので書かなかった? ――わたし Ich が書いたのよ。
新聞に印刷されて載るととてもキレイに写るものだ。人が手書きしたものを読むのは時に、その人その人の書き癖もあってか、下手糞な字を書く人はドイツ語でも居るらしく、大変読み難く、
わたしとしては時にとても苦労するのだが、今回は幸いなるかな、わたしにも容易に読めた。勿論、わたしに向かって訴えている訳ではない。それは火を見るよりも明らか。
とにかく、一男性へ向けてのアピールであることは明々白々。で、それは男性からなのか、それとも女性からなのか。この点についてハッキリとさせなければならない。何故か。変に聞こえるかもしれないが、この話の続きを書き綴って行く
上で必要だから。
その日、偶々その新聞の読者であった(つまり、偶然にも手に取ってみた)わたしは思った。遊び心を発揮して、試しに新聞社に電話を入れ、広告担当者に確認してみようか、と。
ドイツ語の会話実践を兼ねて聞いてみようか、と。
ところが、わたしは電話する前が薄々分かっていた。例え電話を入れて問い質したとしても、多分一笑に付されてしまうだろう。個人情報の保護云々が、この際、ここでも問題になることだろう。新聞社に電話しても、答えは多分出んわ、教えては呉れんわ、となるだろう。だから
わたしは電話はしなかった。
何を意図して名前を伏せているのか、隠しているのか。それもひとつの作戦? 読者にとっては何か遊び心を芽生えさせてくれる。
そう言えば、何処へ連絡すれば良いのか、それさえも書いてない。エぁヴィン君(一応、エぁヴィン君と呼んでおこう)にとっては、連絡の仕様がないのではないの
でしょうか、と筆者は心配していまう。
▼この個人三行広告の意味、目的とは?
いや、女性から男性へ?
いやいや、人間から動物へかも?
人間から動物へ? まさか!? そんなバカな、そんな荒唐無稽な話なんてある筈がない! と反応する人もいるかもしれない
。が、実際、ベートーベンとかいう大きな犬が、どこでだっただろうか、独り言だっただろうか、喋っていたのを見たことがある。 聞いたことがある。
だから例えば、飼い主が大変可愛がっていたワン君の「エぁヴィン」が臍(しっぽかも知れないが)を曲げて何処かへ去って行ってしまった。飼い主は何をしたというのか。自分の餌ばかり気を回して、この犬の餌を忘れてしまったのかも。理由は何であれ、自分の分身がいなくなると寂しく感じるのが飼い主
。
何処をほっつき歩いているのか? 飼い主としては心配で、心配で仕方ない、らしい。わたしは動物を手元に飼ったことがないのでその間の事情は良くは分からない。想像するだけだ。でも、因みに、オーストリアの地元ラジオ放送を何とはなしに聞いていると、「メスの子猫ちゃん誰々が云々云々、オスのお犬ちゃんの誰々が行方不明になってします、見つけた人は
至急連絡下さいな」といった放送が 笑い事ではない、まじめに真剣に流れている。可笑しい、少し変だと思いながらも聞いてしまっていたわたし。飼い主と飼われていた動物との関係はそんなにも親密なのかもしれない。
話がちょっと脇道に逸れてしまった。この筆者、オーストリアにやって来てからは考え直した。
まあ、「エぁヴィン」への愛の告白だとしよう。それも男性から女性へ、というのが相場だと思っていたのだが、、女性から男性へもあり得るだろうし、動物への呼び掛けもあり得るだろうし、と。
このメッセージ、個人広告をを書いた人は、意図的に署名しなかった。住所も、電話番号も記していない。これも無意識にも意図的であった。分かり切っている事だから
でしょう。
そういうことにしておきましょう。
で、一つ、現実的な、地に着いた問題としてわたしでも考えられること、それは新聞広告を掲載するには、新聞社のこと、個人的な広告であったとしても、結構な費用が掛かるということだ。
一語、そう、一語に付き、何十円とか。いや、何百円かも。いや、そうではなかった。ここはオーストリアだから、円(Yen)ではなく、シリングだ。いや、それも違う。当地オーストリアでも時代は移り変わって、長年国民に愛されて来た(それが嫌いな人はいなかったと思う)シリング(Schilling)は現在、昔の貨幣単位となってしまった。使用されなくなってしまった。今は秋たけなわ、EU、すなわち欧州連合に1995年加盟しているオーストリア、今は統一貨幣単位であるオイロ(Euro)を使用するようになった。
語数が一つ増えるに従って、広告料金もオイロも比例的に増える。このメッセージを書いた人は、自分の内にある、積もりに積もった、たくさんの思いを長い文章に表現するなどとは考えずに、出来る限り、これ以上はもう短くしようにも出来ないという、究極の単文(この点についてはこの筆者も見習わなければならないようだ)を書いた。広告費用を極力節約する意味からも。合計で、5字。
▼なぜ書いたのか?
何を目的に、こういう面白い、そして分かりやすい(失礼!)広告を出したのか?
「でも愛している!」をオーストリア全土に公表したかったからか?
個人的な愛の関係を取り立てて公表することもないのに・・・・、とわたしは個人的に思った。オーストリアには物好きな人もいるものだ、と序でに思った。
しかし、まあ、よくぞ、誰もが目を通す、新聞に広告を出すことを思い付いたものだ。そのアイディアに感心するわたし。それが愛の告白なのか、確認なのか、どっちかは分からないけれども、誰もが目を通すであろう新聞紙上に、思い付いただけでなく、実行、発表するなんて、
わたしだったらそこまでする必要を感じない。恥の文化を体中何年も吸収して来たわたし、費用も掛かるというのに。
でも、「郷にあっては郷に従え」とも言うことだし、仮にそんな恥を気にするわたしでも決意して、恥を掻きながらも広告文を書いて、費用も出して当該のオーストリア人(書いた人はオーストリア人だ、と
わたしはもう決め込んでしまった!)のように広告を出したとする。どうなるか?
さあ、どうなるか? オーストリア中の女性、同じ名前を持った人は自分にお呼びが掛かったと思って色めき立ってしまう、かも知れない。
「あたしのことかしら?」と。
オーストリアにはエぁヴィンという名のついた男性が数え切れないほどいるということ、この人は知っていたのだろうか? いや、ご自分にとってはたったの一人だけ、あのエぁヴィンだけ、ということは第三者が口を挟まなくとも分かり切ったこととして自分の胸の内にある一人だけのエぁアヴィンなのかも知れない。
彼女はエぁヴィンに向かって、如何様な心持ちであったのだろう。二人の関係はどうだったのだろうか、そして今はどうなっているのだろう、ちょっとだけ気になる。
新聞に広告を出さなければならないような緊急な事情があったからだ、とも考えられる。
エぁヴィン君はどこに居るのか?
分からない。電話番号も分からない。
どうしたら連絡が取れるだろうか?
どうしよう? 待つしかない。
さて、エアヴィン君は彼女が発信した「個人三行広告」を読むだろうか?
彼女はエアヴィン君から連絡を受けることが出来るだろうか?
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Linz, 10.November 2002