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それは実に哲学的な、根本的な問い掛けであった、というのはわたし自身の恣意(しい)的な拡大解釈ですが、簡単な質問でありながら、受け取り様によっては余りにも深淵過ぎて、どう答えようか戸惑ってしまう。そもそも満足出来る回答が、それとも解答があるのでしょうか。
「何処から来たの?」
わたしはどこから来たのでしょうか?
いつかはこの問題と真剣に実感的に取り組まなければならないだろうと思っていました。いや、もうその時が来ていたのでしょうか。この運転手さんは図らずも、その時が到来していると行き当たりばったり的なこの旅人に親切にも思い出させてくれたのかもしれません。
この世に生を受けた身、誕生した。どうやって生まれたか。生まれたときのことなどは覚えていません。ああだったよ、こうだったよ、と聞かされることはあります。つまり、母親の腹から生まれ出て来たのです。でも、それでは答えになっていない。もっと哲学的な、または神学的な、根本的な設問なのだから。
私はどこから来たのだろう? ドイツ語ではphilosophieren「哲学する」などと言いますよね。
「何処へ行くの?」
そういえば、そんな題名の西洋映画があった。
わたしは何処へ行くのだろう? どこへと目指しているのだろう? なにを求めているのだろう? どんな生き方をしたいのか?
この問題もいつかは真剣になって取り組まなければなるまい。そう考えていた。納得した上で、行きたい、生きたい、と。
いつかは死にます。この真理を頭で理解出来ていたとしても、今は実感がありません。生命がはちきれそうにまだ若いから(または年をとってもこころは若いと思いたいと想っているだけかも)、ということがその理由でしょうか。
年を重ねるに従ってその感を深くして行くのかもしれません。60歳、70歳、80歳と、でもそこまで生きていられる保証はありません。結果的に見たところでそういえるだけであって、実際、明日どうなるか分からない、死ぬかも知れない、とは言われるものの、実感はない。そんなことはないだろう、と暗に思っているからです、不治の病にでも罹っていない限りは。
自分の人生に対する信頼とでも言えましょうか。
まだ起こっていない出来事・事柄を話題にする時には仮定の話とするしかありません。さて、例えば、あなたに後10時間、生きていられるという時間的猶予があると仮定しましようか。この10時間をどのように過ごしますか。
10時間x60 で600分、
600分x60で 36,000秒。
こうしてキーボードを叩いていながら、10秒、15秒、20秒と一秒の塊という秒刻みの時間があっという間に過ぎ去って行ってしまいます。早いこと、早いこと。もう1分を切ってしまいました。
一秒一秒を貴重視しながら生きているのかどうなのか。一秒一秒を意識的に生きていることはあまりないようです。一々意識しながら生きて行くとすると次の行動が取れなくなってしまうかも知れません。
時間はまだある、とつい思ってしまっています。10時間、まだまだ十分にあると思っています。楽観している、とでも言えましょうか。
一時間後、そして二時間後にはどうなっているか。このまま、まだ生き続けていると自分では想定しているのです。でも、「何が起こるかは事前には分かりませんよ」と言われる。確かに分からないのです。何かが起こる予感でもあるかもしれませんし、ないかもしれません。
“生への信頼”とでも表現すれば良いのかも知れませんね。自分の意思で死を選択しないかぎり、自分が死ぬなどとは思えないのですよ。
つまり、自分の力で、自分の意思で生きている、生に信頼を置いている、と思っていても間違いではないでしょうが、自分の手には届かない力が実はあって、生かされているのです。実際、この世に生まれてきたのも自分の意思で生まれてきたのではなかったのですから。
自分以外の所に、生まれさせたい、とする意思、力、目的があったからこそ、自分は生まれてきた。自分自身は生まれ出るということについて直接の参加はしていませんでした。だから自分が生まれ出て来た理由は自分のうちには見出されず、自分を生み出そうとした力に潜んでいることになります。自分は結果としてここに生きている(息している)のであって、原因となってここに生きているのではないのですよね。
そうすると、こうして旅をし続けているのも、自分の意思ではなく、自分以外の意思が自分を通して、何とか日本一周の旅(まずは北海道一周の旅)を達成させたいとしているのでしょうか。
明日死ぬかも知れない前に、どこへ行きたいのか。何をなしたいのか、なにを達成したいのか。自己を完成させたい? 自己を実現させたい? 具体的にはどういうことなのでしょうか。
死ぬ前に、いや死なぬ前に、何処へ行くのか、行きたいのか、自分で決めておくべき問題なのかも知れません。今日は何処へ行こう? 明日は何処へ? 毎日、毎日が意志決定、決断の連続。時に戸惑い、悩み、躊躇逡巡し、それでも運を天に任せるかのように自分を信頼して、とにかく前進。
「何処から来たの?」、「何処へ行くの?」 そんなことを車の中で運転しながら真剣に活発に論議・哲学するという雰囲気ではありませんでした。運転手さんの立場からは「そんなこと、この俺には関係ないよ、どうでも良いのや、いや、そんなこと質問したっけ、もうとっくに忘れてしまったよ」でしょうし、ラジオからの音声だけが狭い運転席の中を渦巻いていました。
死んで何処へ行くのか。死ぬ前にハッキリさせておくべきなのだろうか。死んだら全ては終わりだよ、という人もいますが。
どこへ行くの? 例外なく、地上での肉体生活の終焉に向って歩いています、意識しようと意識しまいと。あと10時間だけ生きていられるとしたら、と仮定した時間が残り少なくなってきました。
あと、2時間です。今までの8時間は何をしていたのだろう? 悔いばっかりだなあ。
塩狩峠は北海道旭川あたりの天「塩」と石「狩」の間にある峠ですが、
明治時代後期に、そこで起きた一つの出来事によって、
列車の乗客を救う為に殉職した長野政雄さん(物語名:永野信夫)の実話を、
その部下であった信者から聞いた三浦綾子さんが、
病身にもかかわらずわざわざ現場にまで足を運び、
筆を走らせたこの物語は、本当に心を打つものがあります。
映画を観てましたら、最後は心と身体が熱くなり、
涙でにじんで見えた周りの人の中にも、
感涙を共にする人がいたのを覚えております。
まさに一粒の麦が地に落ちて救いの実を結んだだけでなく、
多くの人たちに感動の実までも結ばせる事となったのだと思います。
同じ神様を、そしてイエス様を信じている人に対して、
やはり兄弟姉妹として、非常に身近に感じられるものですから、
映画の中の物語の登場人物に対しても、
やはり同様に身近に感じ、その親近感から湧き上がる感情を
止める事は出来なくなっていたものでした。
心底に深く刻み込まれた思いは、
今でもリアルに感じ取る事が出来るほどに、
やはり消え去る事はないのだと感じます。
なお、30歳で実際に殉職したクリスチャンで鉄道職員だった
長野政雄さんの記念碑が殉職の地にありますが、
殉職当時、服の懐に常に忍ばせていた遺書が発見されております。
クリスチャンとしての長野さんの、常に持ち続けている意志・心構えを
現しているものと考えられます。
ちなみに、遺書があったからといって、この機に乗じて死んでしまおう、
そうすれば乗客も助かるし、、、などと思っていたとは考えがたいです。
その一文が、碑の裏面の説明文にあります。
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「苦楽生死均(ひと)しく感謝。余は感謝してすべてを神に捧ぐ」
右はその一節なり 三十才なりき
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