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             1944年7月20日 ヒットラー暗殺計画が失敗した日

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1944年7月20日、アドルフ・ヒットラー暗殺計画は失敗に終わった。                              その日からちょうど60年が経った。

「そのことについてはもう語りたくはないのです。毎度思い出しては心が痛むのですから」

そうおっしゃいながらも、リンツ市内の公共住宅に住むヘルミーネ・ベルナーデ ィスさん(94歳)は、ご主人のことについて語るのです。 ご主人のローベルト・ベルナーディスさんは1938年ヒットラーを尊敬して、出征、ところが戦闘員の殺人行為を目の当たりして、 「指導者」に対する宣誓を破棄したのであった。人間性に対して忠実であろうとしただけであった。

陸軍中佐ローベルト・ベルナーディス(Robert Bernardis)はヒットラーを暗殺 するために1944年7月20日 シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルク(Schenk Graf von Staufenberg)を中心とした共謀グループに加担した。 自分が抱く理想主義のために自分の命を失った。

アドルフ・ヒットラーに対する最大級の共謀団にローベルト・ベルナーディスが関係するだろうということは1938年のドイツのオーストリア併合の際、 まだはっきりしていなかった。当時オーストリア国軍隊の将校で将来を有望視されていたローベルトは29歳という若さ、 ウィーンで参謀部の将校としての訓練を受けることになっていた。
 

ドイツによるオーストリア併合後は、オーストリアの軍隊はドイツの軍隊によって引き継がれた。

ヘルミーネさんはご主人と一緒にベルリンへ行くことになる。
「わたしたち夫婦はヒットラーに熱を上げていました。わたしたちがどうなるかは 後で分かったのですがね。家財道具一切合財を持ってベルリンへと引っ越しました。運送屋さんがわたし達にこう言ったのを覚えていますよ。”嫌なことがこれから起 こるということをご存知ですよね”」

ローベルト・ベルナーディスは前線では参謀部の将校として働いた。まずポーラ ンド、そしてフランス、ユーゴスラービア、最後にソ連。そこで彼が目にしたもの は「我が指導者」に対して疑問を抱くことになった。殺人分遣隊は何千という罪のない子供たちや男女を射殺。戦場ではドイツ軍の敗北が目に見えていた。――こ
れらは若い将校にとってはもう消化しきれないものであった。

急性の胃潰瘍に罹ったローベルトはベルリン行きの切符を手にすることになり、ベルリンでは軍隊の一般的な事務を担当することになった。1943年以降、彼の デスクの上には戦死した兵隊の名前のリストが次から次と絶えることなく置かれるようになった。彼の心の中、反抗心が増した。

 

「夫はベルリンではシュタウフェンベルクと接触することになり、シュタウフェンベルクや他の人たちと一緒にヒットラー暗殺を計画したのです」

ヘルミーネさんは暗殺計画のことを知り、夫と二人の子供、そして自分自身に不安を覚えた。

「夫にこう言ったのです。

 ”暗殺は成功してはいけないよ。分かっているわよね?”

夫はこう答えただけでした。 

 ”自分の身には何も起こらないよ”」

ヘルミーネさんは夫を信じた。
  

ベルナーディスの役目は、「ヴァルキューレ作戦」(Operation”Walküre")と呼ばれていたが、 この転覆計画を単に実行することであった。1944年7月20日、彼は自分でベルリンに向けてこの「ヴァルキューレ作戦」の命令を出し、共謀団 に属していることを明らかにした。
 

ヒットラーは爆弾攻撃を免れ、共謀は挫折してしまった。
 

翌日、7月21日、午後零時30分、ローベルト・ベルナーディスは逮捕された。

1944年7月20日がやってくると、ヘルミーネさんは子供たちと一緒に爆弾が爆発する前に、シュタイヤマルク州のバート・ミッテルンドルフ (Bad Mitternsdorf)に疎開。暗殺計画が失敗に終わったことをヘルミーネさんはラジオで聞いて知った。

「わたしはそこに立ったまま、子供たちを抱き締め、こう言いました。
  ”さあ、子供たち、あなたのお父さんはもういないのよ”」

彼女はリンツにいる両親の所に逃げたのだが、ナチの秘密警察に逮捕され、ラーベンスブリュック(Rabensbrück)の強制収容所に連行された。二人の子供たちは ヘルミーネさんから奪われ、別の強制収容所に連れ去れて行った。8月の終わりに二人の子供たちと再会することが出来たが、ご主人とは二度と会うことが出来なかった。  

 

■秘密警察地下室での拷問

ローベルト・ベルナーディスは秘密警察の地下室で他の100名以上の共謀者と共に一週間に及ぶ拷問に耐えなければならなかった。

 8月8日、ローベルト・ベルナーディスはナチの人民裁判所で裁判を受けるのであった。判決は裁判が行われる前から分かっていた。首吊りによる死刑であった。 その日、36歳の誕生日を迎えた翌日、ローベルト・ベルナーディスはベルリンで肉屋がつかう肉釣り鉤に釣られて絞首刑となった。 ヘルミーネさんはローベルトの友人が彼の独房から極秘に受け取ったくちゃくちゃになったメモ一枚だけを手にした。 そこには奥さんと子供たちに宛てて「さよなら」と記されていた。

ヘルミーネさんは1944年の晩夏、強制収容所から解放された。そしてリンツに戻ってきた。今となっては誰もが彼女のことを知っていた。

「通りで人々はわたしを抱き締めました。主人のやったことに敬意を表してです。 またある人はわたしが強制収容所から戻って来れたことについて首を傾げていました。 当時の人たちはそんな風でした。」  

独裁者に対する暗殺計画が発覚して60年が経った今日、ヘルミーネさんにとっては年を取るに従って記憶が遠退きつつある。 ヘルミーネさんが住む家の居間の窓からはベルナーディスという名がついた通り標識板――それはヒットラーを殺そうとしたひとりの男に敬意を表してのことですが―― それが見えます。

     (地元新聞SONNTAGS RUNDSCHAU
Sonntag,18.Juli 2004の記事の私的翻訳)uu

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