「えっ?」
「インゲラは何処に行ったの?」
「彼女は病気」
「何故?」
「お腹の調子が悪いので」
ヒロはフォークとナイフをそれぞれ両手に取って、食べ始めた。
「あんた、ライス、好き?」
「勿論!」
ライスを食べる人の気持が理解できないわ、といった表情をノルウェー娘は示す。
暫くはお互いに黙ったまま食べ続けている。
ヒロは両手を静止させた。
「昨晩、またも不運にも、わたしは眠ることが出来なかった。」
そう言いながら、彼女の反応を確かめようとした。
そして続けて、言った。
「だから、君のこと、インゲラのこと、そしてわたしがスウェーデンで知っている全ての人のことを色々と思っていた」
ノルウェー娘の反応を窺いながらもう一度言った。
「だから君のことを思っていた」
彼女はヒロの言葉をちゃんと聞き取った。暫くは口を閉ざしたまま、頭の中で考えを巡らしているようだ。
「わたしは君の名前を知らない。ねえ、何んて言うの?」
彼女は自分の名前を言った。彼女のあとについて名前を発音した。が、正しく発音できない。彼女は流し台の上に置いてある Expressen 紙を手元に引き寄せ、鉛筆で下の方の余白に自分の名前を書いた。
ヒロはそれを見ながらゆっくりと発音してみる。
自分の名前の件については落着したということでノルウェー娘は訊いて来る。
「昨日も走って家に帰ったの?」
「そう」
そして付け加える、ひとり言のように。
「ああ、眠ることが出来なかった!」
口には出さずも、”君のことを考えていたからだ、だから”、眠ることができなか
った!
と言っているが分かるだろうか。
彼女は何も言わない。黙したまま立ち上がり、食べ終えた自分の皿を持って、自分の仕事場の方へと姿を消した。ヒロはそこに一人置き去りにされたかのような気持になった。気を取り直して自分の夕食を続行した。
手帳を取り出し、Expressen 紙を手元に引き寄せ、彼女の名前を手帳に記入した。Annbjörg
アンビョリー。
* *
11月19日(火)曇り
彼女たちだけで小休止を取っている。ヒロは勿論、持ち場で自分の仕事を続けていた。その場で聞こえる物音は流し台に向かって洗い物の仕事をしているそれだけである。
彼女たちは途切れ途切れに話している。両手を動かしているヒロの耳にも、時々、話し声が聞こえて来る。今まで彼女たちが働いていた仕事場へと通じるガラスドアは閉じられていた。だからここではヒロだけが音を作っているのだ。
彼女たちの話し合いの間に、洗い場での音は騒音として侵入していったらしい。
「静かに!!」
誰かがヒロの方にむかって語気鋭く言葉を放った。
誰だろう?
ヒロはそれを聞かなかったかのごとく、相変わらず音を立てながら仕事を続行。
しばらくしてノルウェー娘がヒロの前に現れた。仁王立ち。多分、彼女たちの感情をまとめて自ら腰を上げ、静かにしなさいよ、と代表で告げに来たのだろう。
彼女は一方的に、一気に喋り捲った。彼女の言いたいことは容易に想像できた。
「うるさいので静かにしなさいってば!」
要するに、多分、そういうことだろう。が、ヒロは彼女がスウェーデン語を喋るのを聞きながらも、彼女の言葉に別の言葉を挟む。
「Jag verstår inte. わたしには理解できない」
彼女は一瞬、戸惑った様子を見せた。どう説明すれば分かって貰えるのかしら?
ノルウェー娘はジェスチャーゲームよろしく、パントマイムを開始した。物を洗うジェスチャを見せながら、ヒロを非難するような表情で何事かをついでに言って、
目の前からぷいっと姿を消した。
これ以上からかうのは身の危険だと思って、ヒロは理解出来たという頷きを彼女に示した。そして洗う手をちょっとだけ休めた。
ノルウェー娘はヒロのことを念頭から拭い去れないでいる。そう思った。想像した。彼女もオレのことを考えずにはいられないのだ。
仕事の手を全面的に休め、料理場へと行き、戸棚からビール一本を貰って、それをラッパ飲みしながら戻ってきた。そして彼女たちの群れに申し訳なさそうに合流した。端の方で突っ立ったままビールを飲んでいる。彼女たち一人一人の上に視線を配る。彼女たちの話し声に耳を傾けている。
ノルウェー娘は両手で自分の頭を抱えるようにして、両手の中に顔をうずめたままの格好。髪が乱れている。どうしたのだろう?
彼女のそんな姿をみて、驚き、不思議がる。老練のウェイターが彼女の肩を抱えて彼女を慰めているようである。オレの所為だろうか? ヒロはついそう思ってしまう。
彼女は困惑しているのか?
彼女は歓喜に身を震わせているのか?
それとも苦痛を味わっているのか?
どう表現してよいものやら、活路が見出せない沸き立つ、迫り来る感情。それは表現されなければならない。が、どのように?
誰かの胸の中に抱かれたいという内奥からの切望。そんな風に見て取れるような様子。
わたくしにはそんな彼女のそんな気持が理解できる、とヒロは自分勝手に言い聞かせている。
上から見下ろすように、何かを勝ち得たかのような自己満足感を抱いている。彼女はオレに抱かれたいと思っているのだろうか?
彼女のうつぶせ姿勢は哀れみの心情を起こさせる。
彼女はオレに訴えているのだ。
オレに伝えたいのだ。
しかし、ヒロはそこにじっと突っ立ったまま、無関心を装っていた。彼女とヒロだけがそこにいたわけではなかった。
動揺し続けるこころ、不安定な状態のままでいることができない。かつてこのような激しい感情の存在を自覚したことがあっただろうか。
初めてだ。
未だ嘗て味わったことのないような感情の奔流。
それを人は愛と呼ぶのか。
11月20日(水) 曇り
午後9時半を過ぎていた。そろそろ仕事を終えて、帰宅の準備をしても良い頃合であった。
洗い物の仕事を停止して、床を洗い流すことに切り替えた。彼女たちは既に皿洗いの仕事を終えたらしく、それぞれが椅子に腰掛けて一休みしている。
彼女たち全員が休憩を取る前、あの若奥さんがひょっこりと姿を見せていた。
「Hej!]
ヒロは彼女の方に顔を向けて挨拶、そのまま床掃除を続行した。彼女は奥の方へと入って行き、ノルウェー娘に会いに行く。奥の方で仕事を終える準備をしているはずだ。
若奥さんは仕切りドアの外に身を乗り出すようにして彼女に呼びかける。突然の訪問でノルウェー娘を驚かしてやろう、と言った風だ。
「Haloo!]
ノルウェー娘は声に気が付いて応じる。
「Haloo!]
間延びした呼び掛けは間延びした返事を呼び出した。
ヒロは床をブラシで擦って、汚れを流し落としている。若奥さん、ノルウェー娘、女子学生たちがヒロの仕事振りを眺めている。いや、意識して眺めていたわけではなかろう。しかしヒロとしては彼女たちの視線を意識せざるにはいられない。
ノルウェー娘が若奥さんの耳元に何かを告げたように観察された。気のせいかもしれない。が、若奥さんはこちらの方を見続けている。彼ったら、先ほど、わたしにあることを言ったのよ。あのこと。ノルウェー娘はそんな風に若奥さんに囁いていたのかもしれない。そして若奥さんはヒロの方を注目している。
その間、あの掃除婦おばさんのような女性がヒロの方に向いて尋ねる。
「ねえ、あんた、アイスクリーム、食べる?」
「食べたい」
床の掃除を終えた。と同時に、おばさんはアイスクリームを手に持って運んで来てくれた。おばさんのいるそちらで一緒に食べると言いながらも若い彼女たちのいる方へと、渡されたスプーンとアイスクリームの入ったグラスを持ってやってくる。
最初、遠慮がちに端の方、立ったまま流し台に寄り掛かるようにして食べていたが、足が疲れて来たので、流し台の上に直に腰掛けた。両足は宙ぶらりん。アイスクリームが乗ったスプーンを口に運んでいると一つの疑問が湧いてきた。
「これは幾らぐらいするんですか?」
「二十七!」
ノルウェー娘が我先にといった風に大きな声で答えた。
彼女の返答は他の女性達の否定的なつぶやきに会った。それが二十七クローネもするわけがないだろう!? 法外な値段だ。高くともせいぜい5クローネ前後であろう。ヒロはそう推測した。
「二十七オーレ!」
ノルウェー娘に代わって、付けたしの訂正をした。勿論、彼女の意味したところを言ったわけではなかった。二十七オーレではただ同然だ。
ノルウェー娘は何を考えていたのだろう? アイスクリームが乗った自分のスプーンを口に運びながら、彼女は一体何を考えていたのだろう。
二十七。来月は二十七になる。彼女はヒロの年齢のことを誰かに聞き出し、そのこと考えながらアイスクリームを食べていたのだろうか。彼女は自分の年齢とヒロのそれとを比較していたのかもしれない。何のために?
ヒロの質問に直ぐに答えてあげようと、「二十七!」と思わず口から出てしまったのだろう。
彼女は先の方まで思考を、いや、想像を押し広げていたのかもしれない。われわれは将来一緒に生活を共にするかもしれないということなのだろうか。
ノルウェー娘は食べ終え、姿を消した。女子学生も消した。ヒロと若奥さんの二人だけがそこに残った。流し台の上から見下すように彼女とは相対している。沈黙を嫌って、彼女に問い掛けた。
「何時、子供は生まれるのですか。来月?」
「一月」
「来月だったら、わたしと同じ月だ」
最近、スウェーデン家族内で起こった出来事をついでに話題に取り上げ、説明してみた。つまり、息子夫婦は離婚した。
離婚したということを彼女に判らせるのに時間を要した。ヒロの貧しいスウェーデン語力。
結婚して、赤ん坊を宿し、今は生まれるのを待っている若い女性を面前にして、ヒロは離婚のことを話題に取り上げている。
「スウェーデンでは離婚は普通のことなんですか?」
彼女は同意のうなずきを見せる。
「日本では離婚するということは特別な目で見られるのです。そう簡単に済ませるということは難しいのですよ」
これは遺憾とヒロは話題を変えた。
「で、あなたは Lugvik
に住んでいるのですか?」
離婚した息子夫婦は Lugvik という所に住んでいる。
「いいえ、”どこどこ”に住んでいる」
若奥さんは地名を言ったが聞き取れなかった。
「でもここに腰掛けていた女の子は おなじ Lugvik に住んでいるわよ」
ノルウェー娘のことだ。そうか、彼女は LugviK に住んでいるのか! ノルウェー娘の居場所を始めた知った。
アイスクリームを食べ終え、自分には馴染みの水道の蛇口の下で水洗いをしたグラスとスプーンを持って皿洗い場の方へと、若奥さん一人を残して、姿を消した。
午後10時に何なんとしていた。仕事も終えたし、アイスクリームも食べたし、後は帰るだけ。戻ってきて、若奥さんの横を通りながら挨拶する。
「家に帰らなければ。走って帰るのです。Hejdå!」
「Hejdå!」
帰り際をうまくこなすことができたと思いながら、更衣室へと向かった。と、通路でノルウェー娘に会う。
「家に帰るの?」とノルウェー娘。残念そう。
「勿論! 時刻は10時」
「Hejdå!」
じゃあ
「Hejdå!」じゃあ
我々はそこ、通路で、お互いに別れた、何らの未練もないかのように。