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 「第25日」 19xx年8月30日(水)薄曇          岩尾別→ 知床山中


 明日(つまり、今日)になったら、ここ知床のYHを出発しよう、で起床は午前4時だ、と昨晩は心に決めて自分の寝袋の中に潜り込んだ。決めた時刻に起き上がれるのかちょっと不安があった。


 何故、起床を午前4時にしたのか。

 本日は知床も見納めの日ということで、羅臼岳一つだけでなく、他の見所をもうひとつ見てから知床を後にしようと心に決めたからだった。咋夜のミーティングでの、ヘルパーの、弁舌さわやかな“知床コース・ガイド”に煽られ刺激を受けてしまったからかも知れない。


 
■朝飯前のジョッキング?

 知床滞在3日目の朝を迎えていた。ここ岩尾別YHで2泊したことになる。

 目覚めた。腕時計を見た。午前4時50分。
 
 50分も遅刻してしまった! 

 予定の時間よりも結構遅れての起床だった。ヘルパーの話では往復3時間(徒歩で、のことだろう)は掛かるということだったから、これからでも行こうか、それとも行くまいかと少々迷った。が、もしかしたら一生に一度のことで、もう二度と来ることもないかも知れないと考え、思い切って行って来ることにした。

 ゆっくりと余裕を持って知床の自然観照に歩いて行って来る積もりであった。ところが、寝坊してしまった。

 計画を変更せざるを得ない。歩きではなく、駆け足で行って来よう。





    *    *


 「何処まで?」

 わざわざ聞いて来る人がいた訳ではなかった。

 「何処まで? 五湖まで!」 知床五湖まで、であった。


 出発が遅れた分、つまり遅刻分を挽回しなければならない。そこまでちょっと走って行ってすぐに戻って来よう――、最初、そんな軽い気持ちであった。

 行くと決めたから行くのだ。ところが、行こうと決めた後も、実を言うと行こうか、行くまいかと少々迷いが続いた。

 何故迷ったのか。本当のことを言ってしまおう。特筆すべき高尚なる理由があったわけではなかった。

 寧ろ余りにも形而下的なこと――、つまり、飯のこと。

 朝食に遅れて戻って来ることだけはしたくない。遅れてしまってはいけないのだ、いや、満足に食えないようなことが起こっては絶対にいけない。だから内心、気が気ではない。五湖までは駆け足だ。制限時間付きなのだ。



 そんな様子を脇で眺めていた人がいたとするならば、そしてその人からこう問われたとする。

 「何をしているのですか?」

 「余計なお世話だ!」 そんな風に無礼になる答え方はしない。

 ちょっと格好つけてこう答えていたことだろう。

 「朝飯前の運動、ジョギングですよ、ジョキング。アメリカの大統領だってやっているというあれですよ」

 「ほう、朝早くからまた感心なこと! 知床のこんな所に来てまでもジョギングを毎日欠かさないとは、素晴らしい!

 「いや、どうも、どうも」

 そんな風に温かく見守ってくれる人の声援、応援を受けていたかも知れない、と当の本人も勝手に思っている。毎日のジョキングではなく、その朝だけのことだったのだが。

 


    *    *
 
 知床でのジョギングは実はショッキングでもあった、朝飯前でもあった、と序に心が浮き浮きするようなものだった、と報告をここに提出、書き加えたいところだが、どうしてどうして、実の所、結構しんどいものだった。ウオーキングには慣れていたが、ランニングとかジョギングには慣れていなかった。

 文字通り”朝飯前”のことではあった。が、
実質は全然朝飯前ではなかった。




    *    *

 さて、今、走行中である。もうジョキングは始まっているのです。実況中継。出発前の迷いの一部を背負い込んだまま。

 ― 「いつになったら湖は見えてくるのか?」 

 元気良く走っている。まだ始まったばかりだから。

 まだ走っている。と同時に気になり始める。

 ― 「まだか、まだなのか?」


 まだまだ、と走っている。

 ― 「馬鹿に遠いところにあるんだな!?」

 まだよ、まだよ、まだらしい、と走っている。

 ― 「どのくらいまだ走って行かなければならないのか?」

 五湖は何処にあるのか? 

 「何処までも、いや五湖まで」も、「何処まで」も、と結構な距離を走らせられる場所にあるようだ。こうなったら到着するまで走って行くのみ。

 それでも不安な思いがある。

 「戻ろうか?」

 「戻ろうか?」

 息も苦しくなってきた。

 顎が出てきた。

 足の筋肉、脹脛、向こう脛も硬くなって疲れてきた。
 このまま走り続けて行くだけの価値があるだろうか?

 まだ走っている。

 ― 「いやはや、失敗してしまったかなあ?」
  
 まだ走っている、ようだ。

 ― 「ここまで来てしまったが、ここら辺で戻ろうか?」


 はじめてのことだから距離感がつかめない。

 不安を隠せない。隠せないと言ったって誰かが見ていたわけではなかったが。

 駆けながら知床探訪といったとこか。
 未知への、絶える事のない好奇心。探究心。


 ― 「あとどれだけ走れば良いのか?」




    *    *

 午前5時半、漸くにして湖への入り口に到着! 

 湖そのものに到着! ではなく、そこへと行く入り口。入り口と書いてあった。この長い足での駆け足でも40分も掛かってしまった。

 その入り口から更に20分駆けて、ようやくお目当ての湖に到達。第二湖、第一湖、第三湖近くまで行き、それぞれの湖をこの目で確認した後、確認しながらもその場で少し足踏み、勢いが付いたままだからじっとしていられない。呼吸を整え、直ぐにぐるっとユーターン、つまり引き返した。


 湖の美をゆっくりと観照している程の心の余裕も暇もなかった。日本の、知床の、自然の美を堪能していることは出来なかった。なぜ? 飯がまっている! 残りの第五湖も第四湖も、あと一湖、あと二湖と数えることもなく、つまり見ずに戻ることにした。

 
 帰りも40分掛かった。不本意ながらも、行きも帰りも駆け足。相当の運動量であった。懐かしいYHに戻って来て、やっと安心した。


 何か、事新しいことをすると、誰にということも構わず近くにいる人に伝えたくなってしまうのであったが、今回は自制して、湖に行って来たということについては誰にも口外しなかった。 自分一人だけの秘密にしておいた。(と、書きながらも、ここではこうして公開してしまった! )

 「あんた、そんなに慌てて何処に行って来たのよ?」
 
誰かが早速、そんな質問でも浴びせ掛けるのではないかと冷や冷やであった。

 息もぜいぜい、それでも一生懸命駆けて戻って来た甲斐があった。間に合ったのだ。午前6時半、YHでの朝食にありつけた。やはり「花より団子」と言ったところか、でも山奥の為か、それに宿泊者が多すぎる為か、食事のおかずがどうも少な過ぎる。ご飯だけは思う存分、食べられる。食べた。

  

 

■羅臼岳縦走へと一人出発

 午前7時半、気分も入れ替えて、YHを発つ。

 「これから羅臼岳を縦走するんですよ」

 「へえ、馬鹿にのんびりとしてるんだなあ〜」

これは岩尾別YHヘルパーのコメント。午前7時半出発では遅すぎる、ということなのか?



 山に向かって行く途中、更に知り合いのホステラー一人にも出会う。YHから去ることを告げる。

 「山に登って向こう側へ行く積もりだ。じゃあ」

  「おい、死ぬ前に電報打てよ!」

これは本気で言っているのか? 何かを予感してそんなことを口にするのか。




 さて、昨日、羅臼岳(1660m)の頂上までは既に一度登り切ったので、勝手を知った二度目の登りは簡単だった。

 本日も連泊のホステラー達が登って来ており、羅臼平では皆と一緒に記念写真を撮る余裕もあった。

 頂上では持参のおにぎりを一個だけ食べ終えた後、ちょうどそこにいた男達3人、これから硫黄山(1563m)にも登るのだという、彼等達を見送った。硫黄山の頂上へと羅臼岳を下山してゆくような形で、尾根を歩いて行く3人を暫くは見守っていた。

 気が付くと、そこには一人取り残されていた。
 自分がしなければならないことを思い出した次第だ。


 午前11時半、羅臼岳の向こう側へと山を下り始めた。いつもの通り、一人だ。岩尾別YHにはもう戻って来ることはない。
 

 

                                                    つづく 

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