「第26日」
19xx年8月31日(木)曇り
……………………………………………………………………………………… 知床山中
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■ 石ベッドの寝心地
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翌朝、起床, 午前5時。
野宿、正に文字通りだった。太陽が昇って来るまで起床を遅らせようとする思いもあったが、地べたに寝転がり続けてはいられない。いや、いられなかった。もう朝が来ていたのだ。
山中、薄暗く、薄ら寒い。夜中じゅう、止めどなく流れていた川、そのせせらぎ音が災(わざわ)いしてか、全然寝付かれなかった。
そもそも山の中で一夜を過ごす、しかも一人きりで過ごす、こんなこと、生まれ初めてであった。自ら進んで望んだものではなかった。が、結果的にはそうなってしまった。
まるで降って涌いたような環境変化であった。予想外であった。ぼくにとっては未踏の、見慣れない自然の世界に閉じ込められる形となってしまっていた。
肉体的にも心理的にも、新しい環境に慣れるためには調整時間が掛かるのだろう。それに今、起き上がってみると体全体、節々にも痛みが感じられる。この痛み、無視したくも無視できない。
思えば、これは尤もだと首肯できる。昨晩、就寝前、形も大きさもそれぞれ異なった小石を川岸で狩り集めた。なるべく用途に合ったものを、と選別しながら集めていた。
なぜか。それらを地面に整然と、なるべく隙間が出来ないようにと長方形に並べて、一夜の俄かベッドを作ったのだった。寝袋を地面に直接敷くと地面からの湿気を吸い取って、寝袋の背中は時間が経つに従って湿っぽくなってしまい、そのまま仰向けに寝転がっていると冷えて来て不快となる。 だから、石のベッドに湿気を遮断してもらう役をして貰った筈であった。そして、その上に寝袋を敷いた。寝袋の中身、キルティングがクッションの役割を十分に果たしてくれるものと期待していたが、俄(にわか)作りの石ベッド。
こうした状況下にあってはもともと薄っぺらな寝袋であった。期待通りにはならなかった。つまり平坦なベッドにはならず、肩やら背中やら尻やらと、間接的に寝袋の薄いキルティング一枚を通してであったが、石の鈍い、それでも確実な出っ張り様で背中の筋肉が、腰の筋肉が、尻の筋肉が、我が愛すべき健康な肉体の表面のそこかしこ、不必要にも圧迫を受けていた。
「身から出たさび」―― そう言われてしまえば、返す言葉もない。尤も身から出たのはさびではなく、疲労が伴う筋肉痛であった。
表面が極力平たそうな石のかけらを選んで集めた積りであったが、石のベッドは石のベッドに過ぎなかった。昼間は何かと不快で苦痛であった環境を踏破しようとしていたからこそ、活動を中止した夜は充分に休養が取りたい。取れるだろう、と快適な、疲労回復のりを求めた。希望した。それが得られるものと思った。が、それは想像上の快適な眠りを夢に描いたに過ぎなかった。想像は現実にならなかった。
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■ 現在地?
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今日の食事、朝食と昼食はリュックサックの中にまだ残っていた食べ物の中−−おにぎり、一個とチョコレート、一本−−これらだけで済ませた。全くの粗食だ。我慢せざるを得ない。
それはそうと、現在、この自分は一体何処にいるのか?
町中、よく駅前には現在地を示した地図掲示板が立っているが、ここ知床山中、そんな便利な情報提供の立て看板は見回しても見出せなかった。だから、都市の旅行者としての感覚のままで物事を捉えようとすると、ここ知床山中では至って不便さを感ぜざるを得ない。そんなことを悟らされた。ここは全く別の世界なのだ。緊急に意識転換が求められた。
正確な位置がつかめない。一夜を明かした、ここ、今、ここに一人切り、ぼくはぼんやりと突っ立ている。現在地を知りたい、と思った。知床山中にいる。それは分っている。寝ている間に何処か知らぬ所へと現実に移動してしまったというわけではない。
でも、そう言えば、移動している夢を見ていたようでもあった。川の流れが絶えず耳に届いていた。いつしか川の流れの中に自分が横たわっているかのような気持ちになり、気持ち良さそうにそのまま一緒に流されているらしい自分を上から不思議そうに眺めていた。
いや、眺めていたような眺めていなかったような、そんな自分、またそんな自分を脇で眺めていた別の自分、そんな自分を思い出す。さらさらと、気にしだすとその時から永遠に気になるような、いつしかやたら耳障りな音と化し、これでもか、これでもかと耳に執拗に付き添っていた。川のせせらぎ音は結構大きい。
――「お〜い、俺はここにいるぞ!」
外の人に知らせたい。そう思った。
―― 登山者名簿には自分の名前を確かに書いて置いたから・・・・・
―― もしかしたら助からないのかも・・・・・
―― どうしたら良いか?
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■ “自己救出作戦”を真似る
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昔話に、いや、昔、話に聞いたことがある。いや、そうではなく実際にあった体験だということで、何かの本で読んだのを覚えていて、それを思い出した。
ある人が遭難したらしく、人里離れた大自然の中に閉じこめられてしまった。自力では到底助からない状況下にあった。たまたま今回、ぼくがそうであったように川の近くに自分を発見したそうな。
この話を思い出した。自分が立っている川原、その辺を見回した。同じものがないかと注意して探して見た。と、運良くも、薄茶色の、汚れてしまっていたが、そんなものを見つけた。首が括れた小瓶である。
さっそく、手帳の一ページをびりびりと破り、メッセージを書いた。
「助けて下さい。ぼくは知床山中に閉じ込められてしまいました」
―― ところで、今日は何月何日だろう?
―― 8月30日か、31日だっただろうか? はっきりしたことはわからない。
―― どうしよう?
―― いや、どうでもいい、一日の違いなど。昨日からずっと続いていることなのだから・・・・・・・
「助けて下さい」というメッセージを綴った紙片を瓶の中に入れ、蓋がなかったが、一刻も救助されることの方がもっと重要だということで、そんなことはこの際どうでも良いとにせず、川の流れの中、小瓶は当然下流へと流れてゆくもの、と考えて、川幅の中間当たりへと見当を付け上空、力の限り投げ放った。その瓶は下流へと流れて行き、最終的には河口、海へと辿り着くことだ
ろう。
海に着いた瓶はたまたま漁師の網に魚と一緒に引っ掛かり引き上げられた。網の中に瓶があるのに気づいた漁師はそれを拾い上げ、と同時に何かを直感した漁師はその中に何か暗号みたいな文字らしきものが記されているのを発見。よくよく見ると日本語で書いてある――「助けて下さい」と。
漁師はことの意味を、ことの重大性を、ことの緊急性を悟って、素早く行動に出た。その結果、遅かれ早かれこのぼくは助かる、ということに相成る。でも今日から数えて、何日後になることだろうか?
実は思ったより遠くへとは着水しなかった。その小瓶はドビンと一旦水の中に沈み、直ぐにまた浮び上がって、そのまま流れに乗ってずんずんと運ばれて行くものとその行方を、固唾を飲んで見守っていたが、実は浮かばず、川の中にあった躓き石の陰に
ぼくから隠れるかのように留まってしまっている。
川下へと流れては行かない! まずい、と内心思った。慌てた。足元の小石を拾い上げ、小瓶を目掛けて何度か投げてみた。瓶が流れて行くようにと願って努力したが、命中しないし、いや、命中したら瓶が割れてしまうと心配して、その近くの水に動揺を与えようと配慮しながら、投げてみたが・・・・何ん〜だ、これでは駄目だ・・・・・・・失敗・・こんなことをやっている自分が馬鹿馬鹿しくなってきてしまった。気休めに過ぎなかった。
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■ 羅臼川を沿って?
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地図、ガイドブック、パンフレット等、知床地方が載っているもの全てをリュックサックから取り出し見比べ参照しながら、現在地の確認を取ろうとしていた。
今、自分が水の流れに沿って曲がりなりにも下っている、この川、これは羅臼川だ。そうだ、そうだ、そうに違いない。そう思い込んだ。実は自分勝手にそう思い込んでいたに過ぎなかったのかも知れない。正確なことは分らない。羅臼岳近辺の川と言ったら、手元の地図には羅臼川の名前しか記載されていない。だからこの川は羅臼川の筈。そう思いながら、川に沿って歩いて下って来たのであった。
これが羅臼川であるならば、これらの資料によると、川の向こう側にはちゃんとした登山道がある筈だ。道順がイラストとしてそう記されている。
そう自分に言い聞かせて、午前7時、この川を横切った後には、更にその向こう側、登山道がある方へ移動しようとして山肌を登り始める。と、今まで目に見えていなかった谷底には別の川が流れている。しかも、今までの川とは全く逆の方向に流れている!
この事実、どう解釈したらよいのか。どうもおかしい。判断に苦しむ。それでも谷底まで降りて行って、その川沿いを暫く歩いた。と、ついつい今までの調子に乗って本格的に歩き始めようとしているではないか。そのままずるずると惰性的に前へ前へと動いている自分を客観視して、はっと我に返った。どうもおかしい。やっぱり変なのだ。静止して制止した。
仕方無しに、また元の川へ戻ろうとして、降りて来てしまった山肌をまた登り始める。が、登りながら戻るとなるとこれがちょっとやそっとでは前へ進めないほどの濃厚な茂みだ。
ちょっと進んでは行く手を拒まれる。木々の枝枝が協力し合って通せん坊をする。子供の頃、遊び仲間と一緒に歌って踊った、あの童謡の、行きは良い良い、帰りは怖い、そのものだ。行く手を阻むのだ。行きは曲がりなりにも良かった。帰りは正に怖い、怖い、だ。残念ながら、おお、饅頭(まんじゅう)、コワイコワイではなかった。相変わらず腹は空かしたままだ。
それに湿った土の山肌で足元がよく滑るわ。右足を上げて上へと行こうとすると左足がズルッ、踏み止まろうとするともう一つズルッ、そしてズルズルっと滑り落ちそうだ。「ああ、谷底に落ちてしまう。助けてくれえ!」と思わず叫びたくもなりそうな自分を感じる。が、叫んだところで誰も助けに来ないことは火を見るよりも明らか、十分承知している自分でもあった。だから叫ばなかった。無駄な努力をしても仕方ないのだ。
ここ二三日は殆ど食べていなので体重も増えていない筈なのに、この自分の体重が災いするのか、そしてまた、あのアイザック・ニュートンがリンゴの木からリンゴが落ちるのを見て発見したと言われる、あの万有引力も、この際だからと、
ぼくに協力しているのかも知れないが、知床自然の山肌にへばり付きながら、滑り止めの準備もしてこなかったので、黙っていても、いや大声で助けを求め叫んだとしても自動的に下へと滑って行こうとするある意思があることには変わりはなく、滑り落ちないようにと
ぼくは近くの枝を手当たり次第緊急に握ったり握ろうとしたりして、阻止しようとする。
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■ ロープ発見!
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う〜ん? 何だ、これは?
何だろう? どうして?
こんな所に濡れた木綿のロープらしき切れたものが落ちている。ぞおっとする。鳥肌が立つ。これはぞっとするような話にもなりそうだ。
こんな所、分け入ろうとしても、いや、分け入ったとしても、人も動物も入れそうもないのに。いやいや、訂正しよう、入れないことはない。入れる。でも、そう容易には入れそうもない。そんなところだ。経験者は今その真実を語る。実際、この本人は幸か不幸か、その現場にどっぷりと入り浸ってしまっていたのだから。
そう容易には入れそうもない所にどうして入れたのか、入ったのか? はい、これが問題です。テレビ・クイズ番組を思い出させるような言い回しになってしまった。
どう考えても解答が思い付かない。考えられない。天から墜落してきたのか。こんな所に以前、どうやって人がやって来ていたのか。本当に今自分が立っている所、この場所に誰かが立っていたのだろうか? 何の目的で?
ぼくみたいな、ドジな登山者が、今のぼくみたいに、この同じ場所に迂闊(うかつ)にも迷い込んでしまったとでも言うのか。想像が想像を呼ぶ。不思議な、湿った白いロープだ。
こんな狭苦しい場所に迷い込んでしまったのは、北海道は知床の歴史以来、多分ぼくが初めてではないだろうかと、変に自負していたのだったが、こんなロープを発見してしまった。目にしてしまったからには訂正が必要かもしれない。
一体全体、これは何を意味するのか。気味が悪い。気味が悪いよ。その曰(いわ)くを想像して、またぞっとした。そして、すぐにこの件については忘れようとした。が、そう簡単には忘れようもない。相変わらず動けずにそこにいるのだから。
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■ 熊対策
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う〜ん、もしかして、熊か? 熊かも知れない。
熊が出るのか? いや、出たのか?
熊が出て来てその人をパクリッ、と喰ってしまったのか? どこかへと引きずって行ってしまったのか。その後(あと)の祭りがこんな形となって、こんな急傾斜の、谷間に近い土肌の途中に落し物としてあったのか、残してあったのか、忘れて行ったのか、何かの目印として置いて行ったのか、どうなのか。
熊が出るのかもしれない!
今度こそ、またも一人きりになっているので、今度こそは出るかもしれない。そう思った。知床には熊がいるということが緊急に思い出された。
危ない!
知床山中に一人切りでいる所に熊との御対面ということになるかもしれない。
恐ろしい!
こんな所で熊さんにお会いしたくはない。こんな所で熊の奴に喰われたくはない。まだ命が惜しい。
怖いなあ!
対策を取らなければ……と。そう思った。
傾向と対策!
そう、こんな山奥の中で、昔の大学受験用語が出て来てしまった。場違いも甚だしい。我ながら心の中で苦笑い。でも本気だ。熊公への対策を取らなければならないと緊急に思った。緊急と対策、いや、間違えた。傾向と対策だ。
熊の習性については詳しいことは知らない。でも手持ち(つまり、頭の中)の知識を確認した。
まず、熊に出会ったらどうするか?
挨拶することはないだろう。熊は腹が減っている時が一番危険だとか。
熊に出会ってしまったら、死んだ真似を、死んだ振りをせよ、と良く聞いていた。本当かどうか、真偽の程はまだ分らない。まだ実体験したことがないからだ。そうとしか言い様がない。まだこの人生、熊さんと直接一対一の御対面をした経験がない。
勿論、子供の頃、親に連れられて、東京は上野動物園に行った時、熊さんを見たことはある。でも、あれは柵がちゃんとあって熊さんと直に素手で向き合うことはなかった。
熊は人の気配を感じると近寄っては来ない、自分の方から遠ざかって行く、とも聞いていた。では熊は人の気配をどうやって感じ取るのだろうか、と考えた次第だ。人が近付いてきたから、逃げて行くというわけなのだろう。と言うことは人が近付いてきたことを熊に知らせなければならない。人が、
ぼくのことだが、近に来ているということを熊に事前に分らせなければならない。
どうやって、分らせようか、知らせようか。歌でも歌って、ここに人がいるよ、この俺様がいるよ、と知らせるのか? 熊の方としては、誰か変なおかしな奴が俺のなわばりで歌っているな、俺を呼んでいるのかな、とでも理解するのだろうか?
緊急の対策! 緊急に対策だ。 さて、どうしよう?
リュックサックの中身を頭の中で総ざらいした。確かどちらもステンレス製の、つまり金属性のスプーンと柄(え)の付いたコップがあった筈。
さっそく取り出す。二つを紐で括り付ける。さらにその二つをリュックサックの横、ポケットの外に吊らす。歩く度に振動で両物体が接触、チャカチャカと金属音を出すという次第だ。ということで、スプーンとコップで行進の音楽を奏でることを思い付いた次第であった。これが我が危険回避案であった。
結局、知床に住んでいるという熊さん(人の名前ではない、念の為)にお目に掛かるという栄誉に浴すること――、明朝、予約済みの雨に浴することはあっても、この熊さんと歴史的な会見をするという、この栄誉には一度も浴することがなかった。熊もなく難なくお会いすることもなく済んでしまったが、不幸中の幸いと言えようか。
つづく