「第28日)
19xx年9月2日(土)晴れ
まだまだ知床山中
午前5時半、起床。
川の水がすぐそこまで迫ってくる間近、その水辺に50センチメートルと遠く離れていない所に寝袋を敷いて寝ていた。
手を伸ばせば水の中に手を入れることもできる。ちょっと増水すれば耳元まで届く近さだ。睡眠中、文字通り水嵩が増して、水が入って来れば、正に「寝耳に水」ということになり、びっくりして飛び起きたかもしれない。今朝も、いや、昨日も、と言うべきか、睡眠が心行くまで十分に取れたとは言えない。
背中の痛みも腰の痛みも取れなかった。ここ2、3日、リュックを担ぐ度に背中にぐっと痛みを感じるのだ。筋肉痛が付いて回る。
着の身着のまま横たわっていた、そんな温い寝袋の中から抜け出て、冷気が漲る中に立ち上がる。起きたばかりだから、ブルブルと寒さで震える。
朝の、焚き火を炊く。
朝食はピーナツがくっ付いた菓子、5,6個と板チョコ、今日は元々の大きさの四分の一だけだ。都合良くも、一日の割り当て分としてちゃんと巧く折れるように境界線が付いている。
朝食が済めば出発に向けて準備。付近に散らばせるかのように解かれていた荷の中身一つ一つをリュックサックに再度積め込んだりしての身支度。
午前7時35分、出発。
本日も川に沿って下って行かなければならない。
――いつになったらこの山から出られるのだろうか。
川の流れの中に乾いた頭を出している石、その石伝いに飛び飛びに慎重に渡って行く。石伝いも今では慣れてきた。
もうそろそろ川も下流領域に入っているのではなかろうかと思われてくるような、ゆっくりとした緩やかな流れが見られる。と、カーブを曲がって、前方の景色はどう展開しているのかなと期待に胸を少々ときめかしながらそのカーブを曲がって目を遣ると、またもや急な流れに迎えられる。分からない。いつになったら下流域に到達出来るのか。
しばらく行くと、またまた川の中の石伝いも、川の流れに忠実に沿った山肌の林の中を行くことも出来ない場所に来てしまった。
どうしようか? そう考えることもなく、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、裸足になって川の水の中を歩いて渡らなければならない。川の水は冷たい。長くは浸かっていられない。痛みを覚える。
しかし、この川の水、汗を掻いた後などに飲むと冷たいから本当に美味い。本当に飲んでも大丈夫なのかどうなのか、と思案している暇はなかった。のどが渇くので、乾きを癒すためにも飲んでしまっていた。冷たくも美味い。
今は川の水を飲むのではなく、その中を歩いて行くのだ。
川の流ればかりを毎日見ていると、川の性格みたいのもが何だか分かりそうな気がする。
この川の水はどこから来たのか。天からだ。もともとは雨だ。山の頂上からか、山腹か、水は上から下へと、高い所から低い所へと流れる。雨水が少量ずつ溜まって、塵も積もれば山となるではなく、一滴一滴が集まって川になる、といった風に一つの細い流れを作りだし、それが段々と広がって本流となって何処かへ・・・と流れ落ちて行く。何処かへ、と。
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■ 川の流れ
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さて、何処へ か?
小学校の高学年での教室内でのことであったか、それとも中学校での地理の授業の時であったか、確かなことは忘れてしまった。日本全国の白地図に川の流れを水色の色鉛筆で描き入れるということがあった。教室の中をゆっくりと後ろ手で歩き回り、一人一人の作業を見守っていた担任の先生が、僕の机の横に立ち、僕の描き方に黙って注目していた。暫く経ってから僕に話し掛けて来る。
「川はどっちの方向に流れるの?」
「・・・・・・・」
上かな、下かな、横かな、などと心の中で答えを用意していたが、確信が持てない。暫く黙っていた。僕の脇から去ろうとしない。
「ええと、・・・・」
東西南北の方向のことを訊いているのかな? 実は、先生が聞いている質問の意味が良く分からず、どんな答えを求めているのか、変に答えると怒られると思って、はっきりと答えも出せず、黙ってもいたのだった。先生の質問を無視するかのように、相変わらず、薄く浮き出されたように印刷された川の流れる線、それは印に過ぎなかったが、それに沿って色鉛筆で川を描いていた。僕にとっては塗絵作業であった。
「川は海から陸に向かって流れるの?」
「・・・・・・・」
「そうじゃないでしょう!」
「・・・・・」
分からない子ねえ、と続けて先生は口に出しては言わなかったが、そう言っているようにもこの耳には大きく聞こえた。当時の僕は分からない子だった。
地理の勉強をしているということを忘れ、僕は塗り絵の如く、相変わらず川の印の線に沿って青色鉛筆を辿っているだけだった。
上流の方では急流である。またゴロゴロした荒削りの岩と岩との間を流れる。岩の大きさも人間が2、3人一緒にその上でごろ寝出来るぐらいの大きいのが一杯ある。腹這いになって気が済むまで、日が照っていれば、日向ぼっこに最適だ。
腕時計に目をやる。午前9時を過ぎた。10分程してから、空は晴れbn ているのに、雨が降り出してくる。降り方に少々激しさが増してくる。すぐ止むだろうと高を食っていたら、思い違いだった。
止みそうもない。雨宿りをするにも適当なところがない。川辺にたくさん生えている、蓮の葉の親玉みたいな葉を雨傘の代わりにして雨宿りだ。しかし、止みそうもない。しかも、風が出て来る。30分経っても、雨はさらさらっ〜と風に吹かれながら降り続いた。
もっと先へと進みたい、早く。そういう思いが募る。休憩を求める体のコンディションではない。まだ、そうではない。いつまで待っても雨は止みそうもない。仕方ない。雨の中を出発だ。上流の方を振り返って見上げると晴れているというのに、ここでは雨が降っている。
それに休憩をすると、歩を止めていると、例の蜂みたいな昆虫が我が顔を目掛けて攻めて来る。風がちょっと吹いていたので、今回
は攻められず済んだが、それでも全く手を焼かせる。他の事に気を取られ、油断をしていると知らぬ間に刺して血を吸って、それを吐
き出して行くのだ。刺した皮膚の所には穴をぶつぶつと開け残してさっさと行く。さっさと行ってしまえ、だ。
子供の頃、分厚い画用紙に錐を突き刺して穴をぼこぼこと開けてその快感を楽しんでいたことがあったが、その穴を開けたようなイ
メージが浮んできた。痒いのなんの、と痒いこと痒いこと。見事なぶつぶつを目にしてぶるぶると背筋に悪寒が走る。気持ち悪いわ。
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■ ダムだ!
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午前11時50分頃、ダムにぶつかる。
―― 何だ、こんな所にダムがあるのか!?
―― どうしてこんな所にあるのか?
―― これでは先へと進めないではないか。
通せん坊だ。通せん坊だと敢えて通って行こうとする負けん気が起こる。障害を乗り越えて、どこまでも突き進んで行くのだ。ここ二三日そんな心の姿勢が出来てしまっていた。が、ダムの上を通って渡って行こうという具合にはどうも出来そうもない。仕方ない。
またもや山肌に沿って一山越えて向こう側へと行かねばならない。前進するにはそうするしかない。
山肌の上の方まで難儀しながら登り切って、木々の間から前方、川の流れと同じ方向、この先の川はどうなっているものやらと木の枝枝を両手で掻き分けて、眺めようとする。
と、目の届く限り遠くの方、前方を見遣ることが、視界を遮られることもなく開け放たれたかのように見ることが出来る。
川のことは忘れてしまった。
あれっ、これは・・・・もしかして・・・・ ――今朝方、いつになったら山から出られるのか、と自問していたが、その答えが近づきつつあったのだろうか。
まだまだ当分続くだろうと思い込んでいた・・・・・・・。
つづく