「第35日」
19xx年9月9日(土)快晴
〜〜〜〜〜〜〜〜〜 然別湖畔→ 糠平湖→ 帯広
■「今日は歩くデー」
夜が明け、朝が来れば目覚め、普通そのまま起き上がる。起床時刻
を知ろうと条件反射的に腕時計に目が行く。午前6時半。
朝食の席では味噌汁は一回、ご飯は二回お代わりした。エネルギー
補給を少し多めに意識した。何故か。今日は糠平(ヌカビラ)まで、23キロの距離を歩いて行くと決めたからだ。
自分がこの旅の主人公なのだから、旅を演出する役割をもっと自覚
的に担っても良い筈。車任せではなく、自分の意思で旅をする。時には自分一人で決めた通りにやってみたい。今日は最初から最後までこ
の足で歩いて行く。
午前8時半、YHを出発。玄関先でホステラーたちの見送りをしていたペアレントさんに僕も出発前の挨拶をする。
「歩いて行きます」
「そんなことせずに、バス代110円払って行きなさい。バス会社に儲けさせてやりなさい」
「誰が何と言おうと、歩いて行くと決めたんですから歩いて行きます!」
心の中、自分に向かってもう一度言っても、ペアレントさんに口に出しては言わなかった。
今日は一日歩く。もう既定の方針となっている。雨が降ろうが槍が
降って来ようが歩いて行く。今日は徹頭徹尾、歩く。
だから今日は歩くデー。
目的地の糠平まで、距離としては23km。一時間4km歩くとし
て所要時間、5時間半ぐらい。途中で道草を食っても軽く着ける。急
ぐこともない、ゆっくりと余裕を持って行ける距離だ。
然別湖畔の道路、木陰を歩いていた。涼しい。車も通らないので歩
きやすい。天気も申し分ない。
一時間10分後、山田温泉に辿り着いた。速くも遅くもない同じペ
ース、ハイキング気分で歩き、足取りもしっかりとしていた。
10分後、再び歩き出す。木陰が途切れてなくなった所ではるか前
方に目を遣るとそこだけがスポットライトで照らし出されたかのように、白いジャリ道がずっと先へと続いている。そのジャリ道をサクサ
クと歩いている自分の姿が目に浮かんでくる。
さて、今、想像通りにジャリの上をサクサクと音を立てながら歩い
ている。どこまでも上りのようだ。汗も結構掻いてきたことだし、歩
き疲れても来た。どこか良い休憩場所はないものか。そんな場所が見
出されるまでそろそろと歩き続けていた。
午前11時、未だ上り坂の途中、落石事故を防ぐ為に山肌に金網が
張ってある場所、下で30分間だけ休憩を取ることにした。落石の心配はないだろう。
余りにも天気が良い。暖かい。この暖かさは恵みだ。希望的な心に
してくれる。Tシャツを脱ぎ、靴を脱ぎ、靴下を脱ぐ。汗を掻いた肌からは気化熱が奪われて行く。気持ち良い。新鮮な大気に直に触れた皮
膚は解放されて喜んでいる。脳にも快適な刺激が伝わって行く。
目をつぶったまま太陽に顔を向ける。暫し黙想の世界に逍遥してい
るかのような気分。バスや自家用車が時々、思い出したかのごとく閉じた目の前を通過して行く。どんな車が通って行くのかと目を開けて
確かめることもしない。車が通って行っても気にならない。今日は歩
いて旅を享受する。
■車からのお誘い
休憩を終え、新たな気持ちになって歩き始めた。坂も上り切った所
に、表示板が道路脇に立て掛けてあった。
今登ってきた登り坂は「幌鹿峠」と記されている。
ついでに「ご苦労様でした」とでも記して置けば良いのに、と自分勝
手に思った。
この道路は北海道で最も高い所にあるそうだ。標高1080m。そこを通り過ぎ、足取りも何とはなしに軽くなり始める。下り坂を歩き
始めた。脛の筋肉が張っているのを意識する。
正午頃、乗用車が後方からゆっくりと、下り坂だったから、なおさらゆっくりだったのかも知れないが、前方を歩いている僕の存在をどうも意識しているかのような、段々と近付いて来て停車するかも知れ
ないようなエンジン音。
後ろからやってくる車はもしかして停車するのでは? ―――この
気配、この予感、この感覚は何とも言えない。全身に一瞬電気が突っ走ったが如く、ゾクゾクとする。今までの人生、何度試みても宝籤には残念ながらまだ一度も当たったことがないが、この予感はほぼ確実
に当たりそうだ。
ほ〜らっ、やっぱり、止まった!
前方、女の人、若い女の人が車から降りた。笑顔。
「狭いですが、宜しかったら乗って行きませんか?」
「えっ? それはどうも。いいんですか?」
女性からの申し出、勿論拒む理由などはない。汗を掻き掻き登り坂
を歩いていた道々何処だっただろうか、もしかしたら休憩を取った先ほどの場所だっただろうか、Tシャツを脱ぎ、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、開放感を味わっているうちに朝の出発時の決意も一緒に解放させてしまったのだろうか。
「朝の決意はどうしたの?」
朝の決意については他の人は知らない筈なのだが、もしそれでも知
っている人が現れて、追求確認するようなことがあったとしても、「まあ、まあ、良いではないですか、せっかく女性がご親切にも一緒
に乗って行きませんか、とお仰って下さっているんですから」と当の本人は頭を掻いてお茶を濁すかもしれない。
臨機応変。これをキーワードとして旅をする。一人で行くよりも、
時には二人、三人でご一緒した方が面白い。「旅は道ずれ、世は情け」とも言う。
本日の目的地までの距離、残すところ、あと8kmとちょっと歩か
なければならない筈であったが、運転手さんが言うように、結局「歩くよりも乗ったほうが数倍楽ちんですよ」だった。既に車の中に納まっていたのでその説得には簡単に納得、直ちに同意した。
■若い二人は何者?
このお二人、若い新婚夫婦なのか、それとも仲の良い兄妹なのか、
人間関係がはっきりとつかめない。仲睦まじい所だけはハッキリと見せて下さる。明け透けに訊くのも失礼かと、無関心を装って沈黙していた。そのうちに分かって来るだろう。
「あ〜ん」
自分でそう言って、運転に集中している運転手君のお口を開けさせる。チョコレートを口の中に入れてあげようとする。助手席に腰掛けている女の人の仕草。自然と言えば自然。
「あ〜ん」
仲の良い二人なのだろう。運転手君も一人で唱和。別に声を出さなくとも、口を開けることは出来るだろうに、まるで後の席に座っている同乗者に宛て付けているかのよう、とも思えてしまう。
「あ〜ん」
後の席に座っている僕にも言って来るのかなと淡い期待を抱きながら待っていたが、この車が停止するという先ほどの予感の方は当たったが、こちらの予感は当たらなかった。
あてがわれた後席にちょこなんと座ったまま、そして自分の口を閉じたまま、聞き様によっては同じように聞こえたかも知れないであろう「あ〜ん」の感嘆派生形である「ぽか〜ん」を目だけで言っていた。
さて、車は快適に走っている。車の中、後席にもう一人誰かが乗っていることなど、まるでもうすっかり忘れ去ってしまって、僕を乗せる前からの二人だけの仲良しの世界に安心して浸っているかのようだ。
仲の良い二人だけの愛の世界。愛、あなたと二人。何処かで聞いた
ことがあるような歌が僕の耳元には甘く聞こえてくる。
以上、旅の途上で、親密な人間関係を図らずも直に観察させて頂い
た。こんなとき、一人者の男は辛い。
■真っ昼間、温泉へのお誘い、
車に便乗してから15分後、我々は糠平(ヌカヒラ)の温泉街に入って行った。とある銭湯の前で停車する。まるで予定していたかのようだ。昔から知っている場所らしい。
「お風呂に入って行きませんか?」
運転手君が勧めてくれる。運転手君は後席に納まっていた一人者の
同乗者のことを忘れていたわけではなかった。
「こんな真っ昼間からお風呂に入るのですか?」
無言で問い返していた。ちょっと変わっていると思ったが、そういう考え方もあるのかと思い直して、面白いアイデアだ、自分にとっては思いも寄らないアイデアだ、グッドアイディアだ、と素直に受け入れた。旅の途中での、ヒッチハイクの途中での、お風呂、温泉。良いではないか。
風呂に入るのは、大体、一日が終わって、体が疲れた、疲れを取りたいという、そういう動機から、どうしても夜、寝床に入る前に風呂に入るという固定観念が出来上がっていた。
既に遠い昔、家には自家用の風呂もなく、近くの銭湯へと母親に連
れられて行った。夜、暗い中、冬のことだった、外は結構冷えていた。マフラーで口を塞ぐように息をしながら、小走りに銭湯へ急いだ。ア
ルミ製の洗面器の中にはプラスチックの石鹸入れが入っていて、カタ
カタと音を立てていた。
少々熱過ぎると感じられる、でも子供は我慢・我慢と我慢訓練をす
るということで、ゆっくりと片足を沈め、さらにもう一方の片足も、と湯をむやみに揺り動かさないようにして湯船に入り、入ったら肩ま
で沈んで、沈みすぎないよう首だけは大事にお湯の上に出して置き、じっくりと浸かっていた。「ひと〜つ」、「ふた〜つ」、「みっつ」
、、そして「じゅう」とゆっくりと数えていた。
子供の時、体が覚えてしまった、あの例の我慢感覚が蘇ってきた。
そんな楽しみがもうすぐ叶えられる。
「真っ昼間に入ってはいけないという法はないですよ」
運転手君に無言で説得させられているかのようであった。
「ええ、グットアイデアですよ。このアイデアは戴(いただ)けます。そう言えば、小原庄助さんと言う人は朝湯が大好きだったそうですし、夜に入るとは限らない。況(いわ)んや、昼。入りたい時に入れば良いんですよね」
お風呂(つまり、温泉のこと)に入って行きませんか、と勧められ
た時、我らが三人一緒に同じ風呂に入るのかな、とこの僕は一瞬思ってしまった。運転手君とだけ一緒に入った。
■帯広へ向けて再出発
生まれ変わったかのような気分で風呂から出て来る。30分間のお
楽しみであった。いい湯だった。
一風呂浴びてすっきりした余韻がまだ全身に残っているのを感じながら、我々三人は同じ車の中に納まった。改めて出発。
糠平湖を左側に見ながら、今、糠平を通過して行く。本日当初の目
的地、誰が何と言おうとも糠平までこの足で歩いて行くのだという、
自分のアイデア(単なる思い付きだったのだろうか?)の実行の方は
完全に放擲(ほうてき)してしまった。
道路沿いは田畑だ。今、我々は十勝平野の中を走っている。のどか
な、のんびりとした雰囲気。馬鈴薯、トウキビ、玉葱、ビート、ソバ、その他色々と名前を知らない作物、だからここでも書けない、そんな
色々な農作物が沿道に見られる。あるものは既に獲り入れられている。
黄色く実った草がのどかな田園といった印象を与える。空も真っ青。
国道241号線に入ってからがそうであった。つまり、道路は何処
まで行っても一直線、長くて16キロも続いている、とか。どこまで
も切れ目無く果てし無く走って行く。
十勝大橋を渡ったのが午後2時。
帯広市内、国道38号線沿いで降ろされる。下車した場所からは歩
いた。帯広駅までへと、人で混んでいる所やら、人の流れが大きくなっている所などを見つけ出しては進んで行く。
午後3時10分、帯広駅に到着。待合室へと入って行く。いつもの如く偵察する。
夜が迫りつつある。
今夜の宿はどこにしようか。可能性として、当“ステーションホテ
ル”を考えていた。
得た情報によると、8月中には駅前に旅行者の為に大きなテントが仮設してあったそうな。今はもう9月。平原荘YHは工事中だということだし、この駅も夜は閉まってしまうということだし、何処か駅の
近くで野宿しようか。
時間が無為(または無意)に過ぎて行く。駅が閉まるまで、この待合室で待たして貰っているのか。口は真一文字に閉じたまま。
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