「第40日」
■ はじめてだった、日本一周ひとり旅 ■
19xx年9月14日(木)快晴
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 襟裳岬→ 白老
■「忘れていた朝」
YH全館、「忘れていた朝」の歌声が流れている。良い曲だ。フォークグループ「赤い鳥」が歌っている。この歌声が午前6時起床の目覚し時計代わりになっていた。良いアイデアだ。
♪忘れていた朝を 二人で見つけたよ
愛の国を探して 二人して来たよ
言葉など今いらないさ
この夜明け見つめる時に
ここですべてを 二人で始めようよ
一晩眠っている間に忘れてしまっていた朝がまた巡って来ましたよ、さあ、皆さん、元気良く起き上がりましょう。そして、今日も元気に次の目的地へと出発して行きましょう!
午前6時5分、起床。朝日だ。明るく、眩しい。希望をとても感じさせる朝だ。
ぼくはこの曲が一遍に好きになってしまった。館内の雰囲気は積丹カムイワッカYHに似た所がある。つまり音楽がYH内に漲(みなぎ)っている。それも若い人達が好んで口ずさむ歌、フォークソングだ。「風」、「戦争を知らない子供たち」などジローズの曲目が良くかかる。
昨日の夕方にはブルースが掛かっていたが、歌われている文句の意味は全然聞き取れず、それでも耳を傾けていた。今朝、赤い鳥」女性ボーカリストの声は何か胸を揺り動かすものがある。
久し振りに音楽を聞いた。新鮮な驚きを感じた。何か今まで長いこと忘れていた音楽の世界に惹きこまれる自分を感じている。音楽も何かを表現している。感動を共に分かち合いたいと誘いかけてくる。
■朝の出発風景
多分、誰よりも一番早く“忘れた朝”を取り戻した後、朝のバス一番に乗って帰って行くという、そういう人達を見送る為に、午前6時半頃、昨晩一緒に初めて泊まった多くのホステラー達は、そう、昨晩、ペアレントさんの話で聞いた通り、いや、寧ろ話を聞いてしまったので、その伝統が今もそのまま残されているのを知った、そして実行した。
さっそくYHの屋根の上によじ登って、旗を振ったり、毛布を振ったり、両手を頭上で交互に振りかざしたりして、ゆっくりと名残惜しそうに出発して行くバスの後姿に向かって「さようなら〜」を大々的に繰り広げている。
去り行くバスの窓という窓からは昨晩一泊したホステラー達が身を大きく乗り出して大袈裟にも全身を手のようにして振って「さよ〜なら〜」に応えている。
さよ〜なら〜あ〜、さよ〜なら〜あ〜、ま〜ったね〜。両手をメガフォンのようにして口に当てて、お別れを叫んでいる。
ここのYHのキチガイ振りが如何無く、物の見事に実行されていた。もっと遅くなってから出発しようと余裕を持って朝食を取っていた人達も、この時ばかりは食べ掛けの朝食をほっぽり出したまま、玄関の外へと走り出て見送り側の群れに加わっていた。
食堂はその時、蛻の空となった。人っ子一人いない。どうしてそんなことが分かるのか、と問いたい人もいるかも知れない。ぼくは一人二役も三役も演じる役目を自分に負わしていたからだ。時には傍観者、時には観察者、あるいは参加者でもあるが、時にはなんでもない役をしている。
もう二度と戻って来ないかもしれないYHでの懐かしい思い出になることだろう。見送り風景に、ちょっと大袈裟なところがあったとしても、これで良い。良い思い出が出来た筈だ。音楽も素晴らしかったが、この伝統も素晴らしい。
■英国女性、一人ポツンと
ところで、このYHには外国からの女性が一人泊まっていた。朝食を終えた後、自分が使った食器を流し台で洗っていた彼女。ぼくは近寄って行き、昨晩ここに泊まった日本のホステラー全員の代表として、と自分で勝手に決め込んで話し掛けてみた。
日本での印象でも一つ聞いてみよう。東京四谷の大学で英語を専攻したのだが、そんなぼくの英語が通じるものか、ちょっと試して見よう。
彼女、誰とも話せないでいるみたいで、見るからに神経質そうな、細身の女性だ。一人ぽつんと仲間外れにされたかのような雰囲気を漂わせていた。
この外国(日本)に遥遥(はるばる)とやって来て、ひとり旅をしているのだろう。ぼくもひとり旅、お互い様ですね。どうですか? 日本での旅は? 話し掛ける前から既にぼくの頭の中には質問が英文としていつくか作文されていた。
その英国女性に我が英語で話し掛けてみた。
「日本でのヒッチハイクはムズカシイ。ヨーロッパではとても簡単に出来るのに…… 云々、云々」
こぼすこと頻りといった風だ。
「外国人だから、と言っても人種差別ではなく、車の運転手さんも敬遠しているのではないでしょうかね。何故かと言うと運転者さんは外国の人を乗せるとなると、外国語を喋らなければ意思疎通が出来ないと思い込み緊張してしまうので、つい乗せるのを遠慮させてもらってしまっているのですよ」
そんな風に説明してみたが、通じたものか、分かって貰えたものなのか、理解出来たか、反応がない。本日は広尾まで行く積もりなのだそうだ。
あれっ、あの人、何処かで見たような人だな、と思っていたら、彼女、知らぬ間にYHを一人で出発したのだった。ぼく自身の出発前の、ちょっとした余裕の一時、YHの建物の外、ベンチに腰掛け朝日を全身に受けて日向ぼっこに惚けていたら、先ほど個人的に一対一で話したその英国女性が目の前の道路をとぼとぼと歩いているのであった。
そんな彼女に気付き、元気に行ってらっしゃい! という意味を込めてぼくとしては少々大声で挨拶を送った。
「GOOD LUCK TO YOU〜!! お元気で〜!」
彼女からは別に何らの返事も来なかった。ニッコリも返って来なかった。振り返りもなかった。隠微な無言の返事だけが帰ってきた。
ぼくの声が聞こえなかったのかな? ぼくの英語が通じなかったのか。道路を歩いていて英語で話し掛けられることなど滅多にないことだろう。だれかまた変な日本人でも冷やかしで喚いているとでも思ったのか。
結構沈んでいるといった按配だ。日本でのヒッチはムズカシイとこぼしていたが、その難しいという印象を心に抱いてしまった彼女、それでも今日もヒッチを試みながら北海道を旅する。心が重いのかもしれない。日本に期待してやって来たというのに。
どのような経験を日本で今まで積んで来たのか知る由もないが、日本での旅に失望してしまっているのかも知れない。ぼくの英語でも失意の彼女には通じない英語だったなのかもしれない。困った、困った。別にぼくが困ることはないのだが、彼女に代わってぼくはちょっと困ってしまった。
無言で行ってしまった。さっきお互いに言葉を交わしたばっかりなのに・・・、ぼくは無視されてしまったと感じた。それともぼくには知りえない別の理由で自分の内に塞ぎ込んでしまっているのか?
それはそうとぼくの英語も錆び付いてしまっていて、久し振りに鞘から抵抗を感じながら取り出し使ってみた。そんな鞘からの、いや口先からだけの英語だったから…・・・ などと神妙に自己反省をしていた。
久し振りに英語を話した。どうも思うように口からスラスラと英語が出てこない。外国語はやはり使っていないとイザという時に役に立たないようだ。学校ではかれこれ何年も勉強した筈だのに、実用面での運用が不足していたのかも知れない。YHの中で外国人に会ったのも今回が初めてであった。
■襟裳岬で
午前8時15分、さあ、今度はぼくの番だ。YHを出発。先ずは襟裳岬の先端まで歩いて行く。
汗をだらだらと流しながら、25分後にはもう到着してしまった。既に先に来ていた人達が二人、三人と組みになって、その辺を散策している。
あの関西弁で話している女の子二人、馬鹿に大きな声だ。どうも場違いな響きを帯びている。わざとらしく聞えても来る。私達はここにいるのよ、ねえ、注目して! と回りの人たちに要求しているかの如く、そんな風にぼくの耳には響いてくる。これは一関東人の僻(ひが)みか。
岬の先端の先端まで歩いて行けるようになっていて、実際そこまで歩いて行っている人もいた。ぼくはと言えば、敢えてそこまで行こうとはせずに20分間程、先端の先端の、海水の戯れを目を皿のようにして眺めていた。太陽が海面に反射して眩しい。襟裳岬の写真でも撮ろうかと思ったが逆光気味。簡単に放棄してしまった。
■ヒッチハイクの旅、再開
午前9時、岬を発ち、浦河(ウラカワ)の方へと歩き出す。勿論、そこまでずっと歩いて行く積もりは毛頭ない。第一、そんなに歩ける筈もないし、歩いていたら日が暮れてしまう。でも、一時間以上歩かなければ、最初の車が拾えなかった。
それにしても暑い。だから汗を掻く。立ち止まって休む。そしてまた歩き出す。上り坂でしかもジャリ道だ。
●一台目、軽バン。
午前10時から20分間。襟裳町内まで。
「苫小牧(トマコマイ)行きには札幌ナンバーの車を拾った方が良いよ」
運転手さんからの、良きアドバイス。今日は、娘さんが京都からやって来る。楽しみにしている様子が伝わってくる。
●二台目、バン。
午前10時45分〜11時15分。様似(サマニ)町内まで。
商業に従事している人らしい。何か一家言を有する人だ。田中首相の日本列島改造論、云々。日中関係、云々。大雪山縦貫道路工事、云々。
「このように旅をしていて、何か得るところがあるのか?」
話しが一段落した後で、今度はぼくの方に訊いて来る。適当に答えた。
●三台目、バン。
午前11時50分〜午後2時28分。
もう昼頃、昼食の時間が来ているぞ、と腹の方は分かるのか、道路の脇下に入って、少々の休憩を取りながら、乾パンをかじる。食べ終った後、さてと、車を拾おうかと手を上げたところ止まったのがこの車だ。
「どこまで行くのか?」
「新冠(ニイカップ)の方まで」
「それじゃ乗せてってやる」
頭を、腰を低くして後ろの席に滑り込もうとした。と、これには、これにはビックリこいてしまった。元首相だった佐藤栄作が、あの独特なギョロ目でギョロリンとぼくの方を睨んでいる。いや、実は元首相に実に良く似た人が座っていた。しかし、まあ本当に良く似た人がいるものだ。感心してしまった。様似から浦河、三石、静内、新冠、門別、鵡川へと走り続け、苫小牧の市外、国道36号線にぶつかる所まで。
道中、静内町内だったと思う、昨日の、東京からのヒッチハイカーが歩いているのが見える。おーい、と手を振ったら彼も自分の手を思い出して振って応えてくれた。彼は言っていた。今日は室蘭まで行って明日はフェリーで大間に渡るのだ、北海道よ、さよならだ、と。
長い道程、車中、余り話さなかった。同乗の大人達三人も余り話しがらない様子だった。ただ目的地の札幌に早く着こう、着こうと先を急いでいるようだった。
「長時間、長距離、本当にありがとう御座いました、お世話になりました」
丁重にお礼を述べて下車。
●四台目、乗用車。
午後2時半〜3時12分。
国道が交差する所で、さて、苫小牧方面の車を拾うかと、リュックサックを担ぎ、一、二歩進もうとすると、側で信号待ちをしていた車から声が掛かる。
「どこまで行くのだ?」
「白老(シラオイ)!」
「白老か。ちょうど良い。白老へ行く所だ」
乗せてもらう。信号は既に青だ。後続のバスがブーブーと騒いでいる。うるさい。やかましい。落ち着いて、落ち着いて。リュックを背負ったまま、素早く飛び乗る。暫く話していると、話し相手としては話しやすい感じ。
「北海道の女の子はどうだい?」
どうだいって?どういう意味かよく分からず、多分こういうことだろう、と思い、こうこう、こうだ、とぼくは思う、と答えた。相槌を打つのも上手い。が、ぼくの答えに何処となく満足そうではない。「聞きたかった答えが返ってこなかったのでオレは不満足だった」と書けばこの運転手氏の気持ちを代弁しているのかな。
この運転手さんの弟さんは7年間も(!)、浪人をした後、社会主義諸国を主に旅行できる旅行会社に就職したそうだ。この運転手さんは子持ちの二部学生だった。
■白老アイヌ人部落
YHに着いた後、そのまま白老アイヌコタンへと歩いて行く。余りにも観光化されてしまったアイヌ人部落だ。部落を貫く道の両側はアイヌ関係のお店がひしめき合っている。店員達が誠に愛想良くお客さん達に品物を奨めている。自分達を観光の対象にしなければ生きて行けないアイヌ人達なのだろう。観光バスが多い。修学旅行の小学生、高校生たちもここを訪れている。
■白老YH、ランプの光の下で
この白老YHに泊ったのは男6、7人、女4、5人だけだった。ミーティングは紅茶を飲みながら、ホステラー達だけで自主的にやった。
始めのうちはテーブルを囲んで、女の子も混じって一緒にギターの伴奏に合わせて何曲か歌ったりした。ランプの、丸っこい光の中でのミーティングも雰囲気が出て良い。
後半は野郎達だけでのミーティングが続いた。特に東北地方に点在する、主だったYHの評価、人気投票、品評会であった。人気のあるところは誰もが一度は泊まっているようだ。まだの人はこれから泊まりに行こうと心に決めていたかも知れない。
皆一人一人が自分の思い、考え、印象やら感想を勝手気ままに、思いの程を発言していたが、それはランプの光が神秘的にそれぞれの話者をそのように促していたかんのようでもあった。話しに関心があり、話に関係ない余計な要素は全部隠されていた。話す人の容貌、服装などは関係ない。話す内容だけに関心があるのだ。
話す人の声に耳を傾けていると、皆、旅慣れているツワモノといった印象を与える。旅の専門家のようだ。
それぞれが優越感を抱いたり劣等感を抱いたり、衒ったりすることもなく、素直な心になって自由に話せる。そんな雰囲気が醸し出されていた。旅を楽しむ心が聞き取れた。