阿寒湖畔→弟子屈→摩周湖→美幌峠→美幌 日本一周ひとり旅↑ 層雲峡→旭川駅

  

「第32日」   ………………………………………………………………………………

 美幌→ 層雲峡 

……………………………… 19xx年9月6日(水)曇り                                     …………………………… 

        

■気分良好

この美幌YHでの朝食も食べ放題の、飲み放題だった ―――食卓に向って、両手と口をせっせと動かしながら、実は希望的観測として自分としてはそう思い込みたかったのかもしれない。

ブドウ食パンと紅茶。

とにかく、YHでの朝食がパン食だと朝の気分も随分と違う。東北・陸前高田YHでの朝食を思い出した。あの朝食の美味さをここ北海道でも、もう一度! であった。

この朝食のお陰か、今朝は気分がとっても良い。頭の中も清清しく冴え渡っている。砂糖を若干多めに入れスプーンで掻き混ぜた紅茶、そのカップをゆっくりと口許に寄せてみる。どんなものかと味見するかのように、ちょっと一口、飲んでみた。その甘さが脳天まで一直線に伝って行く。

美味い。何とも言えない。だから男は黙って飲み続ける。気兼ねなく何杯と飲めるのが何とも嬉しいではないか。

午前9時半、YHを発つ。

旭川に住んでいるという女の子二人と話しながら、駅近くまでと国道沿いを歩いて行った。

昨日と打って変わって、そう、今朝は気分が軽い。全身の細胞一つ一つが何故か、浮き浮きと踊っているかのようだ。身が軽いし、足取りも軽い。口からは歌も自然と出て来るではないか! 口ずさんでいるのは本当にこの自分なのだろうか。

 ♪ 遠い世界に旅に出ようか

   ♪ それとも赤い〜風船に乗って〜。

    ♪ 雲の上を〜歩いてみようか〜

 

午前10時近く、彼女達とは名残惜しそうに別れ、引き続きそのまま一人で国道39号線に沿って歩く。

ベンチがちょうどあった。おいで、おいでと手招きしているかのようで思わず引き寄せられる。腰を浮かしたかのように近寄り尻を降ろす。招待席に座るや否や、本日の予定、今日は何処まで行こうか、と計画を練り始めた。

今日は何処までにしようか? 旭川が念頭にあった。

30分程掛かって、決まった。

ヒッチの開始である。

車がやってくる。手を上げる。便乗希望のサインを送る。止まってくれるかな? 止まらない。素通りだった。

でも別に気落ちしたり惨めな気持ちに襲われたりはしない。今日の自分はそんな否定的な気分とは無関係だ。以前だとついついそんな気持ちやら気分に陥りがち、自分に向っていわば絶望的な心持ちになることが

しばしばであったが、今日は全く違う。知らぬ間に新しい自分になっていた。そうとしか表現のしようがない。

知床山中での個人的な体験は自分の人生に対して新たな見方・姿勢を教えてくれたと言える。自分自身に対して、自分の回りの状況に対して、否定的な、消極的な、絶望的な思いになる必然性は良く考えてみれば何

処にもない、と。環境に支配されてしまう自分になってしまうのではなく、自分が主体となって、環境を主体的に把握する。

ある状況に自分が相対する。その状況に対して自分はどう捉えるのか。要は自分の心の持ち様が大切なのだ。肯定的に、積極的になるのか、それともその反対でありたいのか、どちら側に付きたいのか、あなた次第で決まるということだ。

もう一度書いてしまおう。今日、この旅人は何故か気分が乗っている。希望的だし、楽天的だし、気楽に旅を続けよう。旅をする喜びが湧き上がってくる。

ヒッチしようとした車が行ってしまっても、止まってくれなくとも、それが何だと言うのか。気楽に、そして気長に、少々遅れたっていい、急ぎの旅をしているわけでもない、自分のペースで行こう。

「行ってらっしゃ〜い」と嫌味と見て捉えられるかもしれないような手の振りを車に向ってやることまでは自分に許さなかったが、次々と通り過ぎて行く車を目の前にしても余裕の笑顔で見送れてしまう、そんな心の寛大さがあった。

 

■気にならない、気にならない、

止まらない? だからどうだと言うのか。以前の、余りにも悩みすぎていた自分。自分を客観的に捉えきれていなかった。

止まらない、止まらない、とバカの一つ覚えの如く、否定的な嘆きの呪文を自分に無意識にも唱えつけていた。止まらない、と言い続けていたから、実際、止まらないものといつしか思うようになってしまったし、車の方でもそんな風に思っているなら止まってあげないよ、となってしまった。

一台や二台止まらなかったからと言って、いや、長時間に渡って止まらなかったという体験を積み重ねてきて、それで以って恰も自分の人生に失敗してしまったかのごとく深刻に悩んでいた。今考えると馬鹿げている。そんな傷ついた気持ちになる必要もなかった。何時までも、乗れないことが続くというわけでもなかったのだから。

乗れなければ乗れないなりにも、そう、この足がある。有り難いことに、この両足があるではないか。灯台下暗し、とも言う。遠くの車ばかりに気を取られて、足元がお留守になっていた。先を急ごうと両足をつい一緒に前に出そうとするようなことを考えるかもしれないが、実際、それはちょっと無理だから、交互に協力し合って出せば、それなりに少しずつでも前進出来るというもの、歩いても行けるということに感謝しながら歩いて行こう。

何時までも歩かざるを得ない? そんなことはないだろう。永遠に歩いて行くわけでもないのだから。何だった試したら良い、日本中を歩き捲くるのだ。

そんな自信があった。確信があった。大いに楽観的であった。止まらなければ止まらなくても良い! 止まりたくなければ止まらなくても良い。でも止まるんだったら止まって頂戴! 

止まるの、止まらないの、と一喜一憂する、そんなちっぽけなことにかかずらっている暇などはない。こっちはもっと大きなことで燃えているのだから。

日本一周をやってしまうのだ。この日本を、この諸手(もろて)で、いや、この全身で一杯に抱え込んでしまいたい。だから、そんなこと、小さい、小さい、小さ過ぎて見えないし、気にしない、気にしない。元々そんなことを気にする俺ではない筈! 次がある。次へと進もう。明日がある。百里の道も一足(ひとあし)から、とも言うではないか。

 

そーれっ、止まった! 止まった、止まった。止まったのは・・・、 トラックだ。俺も、止まった。歩き続けていたのに、止まってしまった。止まらざるを得ない。止まってくれる車を無視する ぼくではない。

 

運転手さんは笑顔だし、ぼくだって、ほら、この通り、見えるだろうか、最高の笑顔だ。お互いに、ニコニコの、ニッコリコだ。お互いに、生きていて良かった! そんな爽快さ。快適さ。軽快さ。良かった、良かった、生きていて良かった。止まって良かった。運転手さん、止まってくれてどうも有り難う。  

北見市の端野(タンノ)まで走って行く。45分間。勿論、ぼくが走って行った訳ではない。ぼくは車の中、トラックが走って行った。

 

北見市の境界線を越えてからは、札幌ナンバーのトラックが我々の前を走っているのに気付く。赤信号になった時、運転手さんからコメントがあった。  

「信号待ちの時間を利用して、降りて頼んでみたら・・・・」

 

そう言われれば、それも尤もだ、面白そうだ、乗り継いで札幌まで一気に行けてしまうかもしれない、ちょっと試して見よう、とドアを開け座席から滑り落ちるように車の外へと出て、実行しようとしたら、信号が変わってしまい、前のトラックは走り出す。  

この車に乗れたことで他の車のことまでは気が回らず、指摘されたので実行しようとしたが、反応がちょっとだけ遅すぎたか、逃げられてしまった。結局、諦める。

 

トラックを降りた後、10分足らずで、ほーら、またもやって来たぞ。2台目のトラックにも乗れる。乗れてしまった。運転手さん、ありがとう。札幌まで行くとのこと。やはり広い国道でのヒッチハイクの方が心まで広くなるようで、気が楽だ。運転手さんと助手さんとの、二人の運転専門家の間に守られるように挟まれて運転台に座る。こうして高いところに座っているとまるで自分がこのトラックを取り仕切っているような気分にもなる。  

トラックが石北峠(セキホクトウゲ)をこれから今、通過しようとしていると感じた時のスピードは時速20キロ、ゆっくりと重たそうに坂を上って行く。ここが極みだなという箇所、つまり峠には売店などがあり、店前にはバス、車、人などがたむろしていた。  

さあ、次は下り坂だ。下りは快調。ぐんぐんと重い車体が下って行く。加速がつき始める。が、途中で急に危ない重いを、じゃない、思いをした。

 

高い運転台からは見えていなかった横、側面からちっぽけな乗用車がこのトラックを追い越そうとして無理矢理にも我々の前方に割り込んで来たのだった。  

「何だ、あの野郎!」  

どの車も加速が付いていた。トラック運転手さんの咄嗟の判断と巧みな運転さばきで何らの大事に至らなかったが、まかり間違えば衝突、またはガードレールを突き破って、谷底へと真っ逆様に落ちて行ったことだろう。  

我が人生はここで一巻の終わり、第二巻は何時始まることやら、まだ決まってはいない、となっていたかも知れない。運転手さんの激怒振りは嫌と言うほど分かるのであった。

  「ぶっつけてやろう! どうせ札幌まで行くんだろう、あの車!」 

大雪ダム工事中の風景が眺められる。今走行中の道路上からも、この高い運転台からガラス越しに遠く、山を切り開く工事に参加しているダンプカー数台がゆっくりと行き交っている、そんな現場の情景が手に取るように見える。  

 

■層雲峡を歩きながら見る

午後1時34分、層雲峡(ソウウンキョウ)への入り口、大函(オオバコ)で下車した。層雲峡をこの足で歩いて、この目で見たかったからである。

 

道路に沿って歩いている人など、この一人を除いて、誰もいない。皆、車で通過する。それでも自転車に乗って見物を試みている人に何人か会ったが、百メートル以上もある柱状の岩の並びは、物凄い。あんなにも高い。首を90度以上に傾げないとその高さを測れない。

 

左手側は石狩川が流れている。道路の左右、天を見上げるようにしながらも、進行方向がお留守になって、何かにぶつかったりはしないかと冷や冷やしながらも、時々は自分の位置を確認しつつ首を曲げたまま、岩肌の剥き出しがそのままずっと続く。

2時間、下り坂を歩き通して見物は斯くして終った。首が少々痛くなってしまった。  

 

■YHでの雰囲気

午後4時、YHに到着。

 

ああ、ここにやって来て良かった、ほっとする、寛げて何よりだ、といったことを期待していたのに、何となく雰囲気が宜しくないと直感する。 これでは今までの良い気分までもがぶち壊しだ。冷水を急に浴びせられたような気分。

 

YHにも言わば当たり外れがあるみたいだ。初めて泊まる所が自分に合っているのかどうなのか、この点に付いて知っておくことも楽しい旅をする秘訣の一つかも知れない。  

浴場で湯に全身浸かっている時だけだった、暫しの幸せを味わうことが出来た。気持ちがほぐれ、小さなことに拘らない元の自分を取り戻す時間であった。期待外れであったことをいつの間にか忘れて、満足が行くまでずっと湯の中で汗を掻き掻き瞑想していた。

  旅館風YHではミーティングがないのが普通、それを嘆く同室のホステラー。夜は何も起こらない。自分たちだけで時間を潰してくれ、ということだ。皆と一緒に歌い、ゲームをして若さを発散させることもない。層雲峡のYHでは楽しく泊まることができました、という思い出も作れない。気持ちが癒(いや)されない。彼の気持ちは良く分かる。 ぼくは温泉の中で大きくなった心で、そんな彼の立場に同意を何度となく表すのであった。

 

本日、実は旭川まで行く予定であった。温泉は別にしても、このYHに泊まってしまったことで何か無駄なことをしてしまったように感じていた。YHの第一印象はやはり払拭し切れなかった。

                                                                                                        ――― コメント 

                                                    

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