起きて見ると、雨が降っている!
出掛ける頃には止むだろうと、暫くは無関心を装っていた。ところが時間が経っても雨足は変わっていないようだし、しとしとと降り続く模様。段々と気になり始めていた。
朝食は抜いた。部屋に一人居残って、窓外の空を恨めしそうに見上げていた。朝っぱらからの雨降り。しかも、止みそうもない。何故か落ち着き無く時間だけが経って行く。
出発予定の時間が迫って来たのだろうか、周囲がざわめき立つ。同室の人達は皆、雨が降ろうと降るまいと我関せずといった風だ、予定時刻通りの、今日の行動スケジュールがあるのだろう、それぞれの目的地に向かってもう出発して行くのか。
居残る僕に対して別に関心があるわけでもなし、軽い会釈をしてそそくさと部屋から出て行ってしまった。と同時に僕一人だけがまたも置いてきぼりを食うような気持ちになる。そうじゃない、そうじゃない、とそんな思いを意識的に否定していた。
汽車、バスなどの交通機関を利用しながら旅をする人たちは、その出発時刻に自分を合わせなければならない。僕はそうしたくはない、時間に縛られることから解放されたくて一人旅をしている。でも相棒、話し相手がいなくて、何となく淋しく感じる時もある。こういう天候下にあっては、その感を特に深くする。悪い天候に拘っている自分を忘れたい。
部屋にひとりぽつんといても面白くもない。荷物をまとめて自分も遅れて部屋から出た。そして玄関前へと出て来る。
テレビの画面に見入る。今日は一日中、雨であると天気予報は告げている。分かっているのに、玄関前の外へと見上げるかのように確認する。どんよりと薄暗く確かに紛れもなく雨が降り続いている。秋雨。
午前9時、玄関に屯(たむろ)していた人たちは一斉に出て行くようだ。宿にいつまでも留まっていても、雨が止むわけではない。9時には自分も出掛けると一人で決めていたので、ヤッケを着込んで雨が降る中へと飛び込むかのように僕も皆さんと一緒に出て行く。
でも皆さんとは別行動なのだ。そこにいた人たちが一斉に出て行ってしまい、その結果一人だけ取り残されてしまい、例の遣る瀬無い気落ちした気持ちになるのを嫌って雨の中へと意識的に自分を嗾(けしか)けた。雨に拘っていても雨の方にも都合というものがあるのだ。
■雨の中を歩く
国道に沿って歩きながら、後方から飛沫音を立てながらやって来る車に対して振り向きながら手を上げる。止まらない。手を上げる。止まらない。手を上げる。止まらない。
歩き続けているうちに雨は小降りとなってきた。
雨の中でのヒッチハイクは殆ど絶望的だと思っていた。第一、濡れている人をどうして車の中にわざわざ招き入れる必要があろうか。車内が濡れて汚れてしまう。第二に、車の運転手さんの集合全体という観点から見れば、こういう天候下、自分が乗せなくとも誰か他の車の運転手さんが乗せてやるだろう、何も自分の車に乗せる必要もないだろう、とそんな風に雨の中を歩きながら、自分が運転手さんの立場だったどう思うだろうか、やはりそういう風に思うだろう。そんなことを考えながら雨のシャワーを浴びながら歩き続けていた。
多分止まらないであろうと分かっていても手を上げる。乗せてもらいたいと意思表示するためにだ。
止まるか、止まらないか。止まるかもしれない。止まることを期待しながら、手を上げている。思えば雨の降る中でのヒッチハイクは今日が初めてと言える。実際と想像とは異なるかもしれない。
雨の中を20分程歩いていただろうか、二人連れの男の人が乗ったバンが前方に止まって、僕が近づいてくるのをどうやら待っているらしい。もしかして、乗せて貰えるのか。走り去ろうとしない。どうも、僕を待っているようだ。現金なものだ。乗せて貰えると分かると、急に元気が出てきた。
■北海道の人
北海道の人達は親切だと思う。「朝食をまだ取っていない」と言ったら途中、お店が見えたということでそのお店の前にわざわざ車を止め、「自分で買って来なさい」とでも言われるのかと内心覚悟していたら、そうではなかった。運転手さん自身が車から降り、牛乳と餡(あん)パンを購入、僕に御馳走してくれた。餡パン一個でも充分なのに、二個も買って来て、「食べなさい」と渡してくれる。無償の親切につい涙が出そうになる。嬉しかった。
これも親切と言えるのだろうか、色々と地元に関することを教えてくれる。生きた社会勉強が出来る。大好物の餡パンを口にしながら、車中で何を話したのかと言うと、正にこの食べるということ、食べ物の話。アイヌ人のこと。同じ日本人ではあるが、「内地」の人達のこと等々。