成功だ。大成功とは言えないが、とにかく成功だ。
かつての希望の一部が叶えられた。彼女達と曲がりなりにもスウェーデン語で話が出来た! やっと。
今日はいつもと違って、暇であった。そんなに多くの洗い物がなかった。
聞けばもう一人、洗い物をする人がやって来たとのこと。
ぼく自身が朝出勤して来てやらねばならぬ、
昨日残ってしまった洗い物を彼が既にやっておいてくれた。
今日は余裕を持って仕事が出来た。余裕ができたからこそ、
こうして話せる時間が持てたと言えるかも知れない。
相変わらず、朝のコーヒーの時間は沈黙が支配していた。
が、ぼくは何故か珍しくとてもリラックスしていた。
何かを話そうとうずうずしていた。話したくて仕方ないといった自分であった。
余裕を持って一人一人の顔を眺めていることが出来た。
スウェーデン人の顔を眺めながら、皆、何を考えているのだろう?
瞑想の時間がこの朝の、コーヒーの時間には含まれているのだろうか。
そんな風にも考えてみることが出来た。
一人一人はこれから仕事を始める前の心構えを自分自身に言い聞かせているのかもしれない。
今までのぼくは余りにも深く考え込み過ぎていたのだ。
昼食。いつもの二人はいつもよりも早く昼食を取る。
暇も手伝ってか、ぼくも暫くした後、彼女達に従った。
いや、従ったわけではない。一つの期待があった。
彼女達に話し掛けて、スウェーデン語を喋ることが出来るかも知れない、と。
案の定だった。彼女達は食事を済ませ、消化を助けるために、
そのまま腰掛けて話し合っていたらしい。
そんな所へぼくがひょっこりとやって来たという次第だ。
さっそく、誰にと直接話し掛けるというわけではなかったが、
自分の方から口がいわば自動的に開いた、開いてしまった。
長くは話せなかった。彼女達は直ぐに立ち上がって行ってしまった。
一人取りの残されてしまったぼくは別の会話本を眺めていた。
そうこうする内に別の彼女達がやって来た。
お喋り好きの32歳の主婦(?)と何ヶ月後かに子供が生まれてくるであろう若い女性、
それに52歳のおっさんがやって来た。
32歳が「ちょっと見せてくれ」とそんな風にして会話が始まった。
会話本を見ている32歳。ぼくの昼食は終わりつつあった。
一方、彼女達はこれから食べ始めるのであった。
皆が食べ終わると32歳は席を立ち、コーヒー、
ぼくには紅茶を盆に乗せて運んで来てくれた。お互いに飲む。
午後のコーヒーの時間。ぼくは話す。話題は限られたもの。
スウェーデン語の語彙が少ないがゆえに多くは語れない。
持っているもので何とか喋る。彼女達は聞く耳を持っていた。
ぼくが何を話すのかと、全身耳にするかのようであった。関心は十分ある、と。
ぼくは心に常に抱いていた考えを披瀝した。
スウェーデンで年金生活をしている多くの人たちは、
――――ぼくの感じる所によると、―――― 生活を楽しんでいるようには思われない、と。
本当に生活をエンジョイしているようには考えられない。ぼくは率直に述べたつもり。
自分が日ごろ感じていた所、だから言いたかったところを少々上気しながらも早口で喋った。
彼女達はぼくの言ったことを理解出来たのだろうか。おっさんは俯いて黙って聞いていた。
ぼくの言う所には一理ある、とでも感じ入っていたのだろうか。
気が付いてみれば、ぼくはおっさんを含めた人々について、
聞きようによっては否定的な批判に聞こえないこともない言辞を弄しているのであった。
しかし、おっさんは年金生活者と雖も、
こうしてこのレストランで働いている。働くという現役から引退して、
家で毎日どうにかこうにか、日々を潰さざるを得ない人々、
多くの年金生活者についてぼくは語ったのであった。
ぶしつけなことを喋ってしまった後、誰からも反論が聞かれなかったので、
僭越なことを口走ってしまったのかも知れないとちょっと不安が過ぎった。拙いことを言ってしまったか?
スウェーデンの人たちを前にして、ぼくは喜ぶようなことは結果的に語らなかった。
ぼくは長いこと言いたかったことを言っただけ。
他に何か別のことを語ることが出来たであろうか。
それだけしかそのときは念頭になかった。
ぼくは、その年金生活者たちのお世話を実は受けていると言う訳である。
彼等達からの立場から見れば、飼い犬に手を噛まれたといった状態であろう。
ぼくは彼等達の面前でそんなことを露骨にも、不躾にも、無礼にも語らない。
彼等達の失望、落胆様が目に見えるようだ。それにお世話を受けている立場、
無報酬でお世話を受けているぼくの身分、立場である。
それからは口を閉ざしたままのぼくであった。
彼等達の生活の仕方はぼくの目から見ると、ぼくがその立場に立たされた場合、
ぼくは耐えられず逃避行を敢行しただろう。人間、例外なく、
若い時があるし、若い時がそのまま永遠に続くという訳でもない。
遅かれ早かれ、いや、別に急ぐこともないだろうが、
言わば黙っていても年を取って行く。ぼくとて例外ではない。
日が照って暖かいときはチェアに腰掛けて日向ぼっこをしている風景が良く
見られる彼等達の時の過ごし方。一見平和そうな風景、
余裕十分な生活といったところと見える。
しかし、騙されてはならぬと考えているぼくだった。
本当にそうなのだろうか、と変に批判的、分析的な自分になっていた。
両目をよーく見開いてみる必要がある筈だ、と。
表面的な平穏さというものがある。確かに平穏さが保持されているようだ。
が、他者はどうであれ、その見掛けだけの平穏さに振り回されようとしているぼく。
彼等達の生活の仕方はぼくのそれとは合致しがたいものだ。
ぼくは彼等達のご機嫌取りなどしたくはない。
ぼくは個人主義者だと思う。一人で居ることに耐えられる自分であろうとする。
一人で楽しみを見出せる自分であろうとする。
他者に頼って生きて行くのも生き方ではある。が、ぼくはそういう立場を取ろうとは思わない。
要するに、ぼくは面倒な事柄には関わりたくはない。
卑怯な生き方? そうかも知れない。認めるに吝かではない。
ぼくは何に従って生きているのか? 理性? 感性? 感情?
思い付き? 行き当たりばったり?
敢えてどちらかと言えば、感性的に生きていると思う。
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19xx年9月6日(金)晴れ
☆★★☆〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
快晴。真夏の一日のようであった。
それは休憩室の小さな天窓から覗けた、どこまでも青い、
青い空の一部でしかなかった。
勤務中なので外に出て行くことは出来ない。日光浴をすることも、
いやそれをしながら自由な空気を思う存分、この胸の中に吸い込むことも出来ない。
仕事が待っているからだ。
トーストを食べ終えた。そろそろ仕事に取り掛かろうか、と皆は立ち上がった。
ぼくは何気なしに天井を見上げた。と、そこに四角い、
青色が新鮮そのものとしてこの目に飛び込んで来た。
いい天気だ。そう思った。
「外は気持ち良い天気に違いない」
ぼくはそう口に出して言う。仕事仲間の同僚たちも相槌を打つ。
外に出ていない自分が残念で仕方ないのか、と問われれば、そうではない。
今では彼女達とどうやらこうやらスウェーデン語で意思疎通が出来る。
「仕事に来るというよりも、コーヒーを飲みに来ているみたいですね。
一日に何杯コーヒーを飲むのですか?」
ぼくは彼女に訊いてみた。彼女とは肥満気味の、32歳。
ちょっとひょうきんな所が伺える32歳でもある彼女は軽く受け止め、笑いながら答える。
「何杯もよっ!」
語り合う楽しさを創り出そうとぼくは努めている。
語ることにお金は掛からないのよ ――――
誰かがそんな風にぼくに教えてくれたのを覚えている。
もっと楽しく仕事をしようよ、と思う。仕事の単調さを相殺する形で、
またそれを忘れるためにも別の楽しみを見出そう。そんなことを考えている。
コーヒーを飲みながら語り合うのに別に嫌気を抱かない人々と語り合う自分。
我らは同士であるという仲間意識が芽生えてきた。
しかし、彼女達全部と話したわけではない。
ノルウェー娘が久し振りにひょっこりと午後のコーヒーの時間にやって来た。
もう一人の方はぼくを意識してか、ぼくに気付かれぬように
ぼくを避けるかのようにノルウェー娘の影になって現れた例の、めがねを掛けた若い子だ。
彼女達二人は多分、明日、一緒に働くのであろう。そんな気がする。
少々羽目を外すことを結構楽しんでいるといった風だ。二人がやって来たことで
華やかな雰囲気になったが、それも何となく表面的な印象として感じられた。
本当はどうなのか知らない。
まだ若い、若い。若い娘だ。大人とはどうしても思えない。しかし、
大人たちの世界に片足が入っているかのようだ。何であろうと強い好奇心を示す。 自身が属する女の世界だけでなく、もう一つの極をなす男の世界に対しても非常な関心を抱いている。
が、そう簡単に、大胆にその異性の世界を垣間見ることは自身の自尊心が許さないらしい。 抑制心が働いているようだ。相手の出方を窺っている。危険がないと分かれば、
どうそれが態度となって表出されるものか、今はまだ言えない、知らない。