そう答えるかもしれない。
「いいえ、全然!」
正直に答えるかも知れない。
満足しているなら、何も言うこともない、かも知れない。
満足していないなら、それではどうするか。どうしよう? どうしようもない?
外からの変革がもたらされなければ、内の中の事態は何も改善されないのでは、と思っているのであった。
同じ質問を老夫婦に向ってしたことはない。酷だ。悲しませるようなことはしたくない。
■年金生活者の実相
夫婦合わせて二千クローネ弱で暮らしていると教えてくれた。
老後の生活はスウェーデンでは金銭的には保証されているようだ。殆ど皆、
年金生活者をやっている。金銭的には不満はない。つまり、働いて稼がなければ
生活を維持して行けないという気使いをする必要がない。働きに出て行く必要がない。
「あなたは充分に働きました、ご苦労様でした」 と社会から公認されるのだ。で、
家に閉じこもっているか、燻っているか、家の周り等、こまごました事に精を出しているか、
どうしているのか、それが焦点となるのだ。
スウェーデンでは税金がヨーロッパの国々の中でもべらぼうに高いと言われている。
事実らしい。高い税金に対して不満はあるのだろうが、
それも老後において償われるということで、そんなに高いものとは考えないのだろう。
所謂社会保障制度が確立している。揺り籠から墓場まで。金銭的には生活は保障される。
では、その生活の内実はどうなのか。それは別問題。
勿論、働けなくなって、生活の糧を稼ぐ途を失ってしまったならば、それは悲痛である。有難いことにそんな困窮状況に追い込まれないで済む
社会保障制度は正に天恵と言えないこともない。
働けなくなってしまったのではなく、まだまだ働けるのであるが、年齢上、
社会的にその人はもう働かずに年金を受け取って生活出来るとなると、
そうせざるを得ないらしい。それを特権と捉えるか、それとも何と捉えるか。
さて、隠居の生活が始まった。今まで考えてもいなかった、
想像してもいなかった状況に色々と直面することになるらしい。
隠居は喜ばしいことなのか、どうなのか。
表に出て来ない不満とでもいうのか、それが生じ始め堆積されてくる。人々との接触が僅少になってくる。家に閉じ籠もることが多くなり、
運動不足になり、まるで“死”を待っていると表現しても当たらずとも遠からずの毎日が繰り返される。
この地上での生を終えることになる“死”に至るまでの時間をどう過ごすかは、もしその人に満足の行く過ごし方があるならば問題はなかろう。
が、ヒロの目の届く限りで見ると、多くの年金生活者にとって難しい問題、課題でもあるかのようだ。連れ合いを亡くし、一人住まいの年金生活者もいる。
ねえ、趣味はないのでしょうかねえ。お酒を飲むことですか? 毎日飲んでもいられないでしょうに。成人した自分の子供たちが頻繁に訪ねてくるというわけでもない。孤独を
忘れるために飲んだくれになっている人もいるのかもしれない。
老後も何かに打ち込める何かがないのだろうか。自分一人が熱中出来ることがないのだろうか。娘息子たちは成人し、自分たちの家庭を築いて、親たちとは同居はしない。
ある時、ヒロは隣の大きな町にいた。公園のベンチに腰掛けてスウェーデンの休日を味わっていたら、結構大きな、ボリュームのあるビール缶を手にしながらベロベロに酔っ払っている
若者を目撃した。
ちょっと家に来ないか、と一人住まいのおっさん、多分、年金生活者なのだろう、奥さんに先立たれたのだろうか、話し掛けられ誘われてその人の家に行ったことがあった。一緒に
ビールを飲み合って暫くは時間を過ごした。アパートの中、部屋の様子をそれとなく観察してみると、整理整頓はされていない。そんな気力も失ってしまっているのだろう。
ヒロは
慣れないスウェーデンのビールを飲み過ぎたのか、別れた後、腹を下してしまった。
一人でいることがとても辛い、言葉では表現できない苦痛、やりきれないと感じられる。自分一人切りではいられないと言うのは人間の属性であろうかどうか、などと考える
必要はないだろうが、時には考えたくもなる。人間は一人で生きるようにはなっていないのだ。
何度も確認するかのようだが、今日は日曜日。外はとても良い天気。家の中に燻っていることが何だか罪のように感じる。どこかへ飛び出て行こう!
ヒロにとっては今日も、そう、今日も日曜日なのだ。別に話すこともないように思われる。家の中は沈黙、だから静寂が漲っている。ただ部屋の一隅から流れて来るラジオの音声が
そんな無言の世界に遠慮深くちょっとお邪魔しますといった風だ。その静寂に少しでも明るさと華やかさを付加しようとしているかのようだ。家の中、ちょっとした
空咳でも大きく聞こえる。
一人一人がそんな言わば半強制的に閉じ込められた沈黙の世界の中で自分を投入させる作業に従事している。ヒロはこうして書き綴っている。マリアさんは何をしているのかな?
これがスウェーデンでの老後生活の一面だと言えるのかも知れない。人々は雑誌や新聞に載っている「言葉のクロスパズル」に自分を付き合わせている。頭がボケないようにパズルを
解いているのか、それともどうなのか、持ち余している時間を暫し忘れようとしているのだろうか。これも人生後半における時間潰しの一環か。
宗教的な会合に毎週一回、正装して出掛けることも欠かせない行事のようであるし、数人だけで別の会を作って聖書の勉強会を開いてもいる。これも欠かせない行事のようだ。
お互いに御呼ばれして楽しいおしゃべりの時を過ごすことも必要なのだ。
幸福な、何の心配もない生活を求めようとする人間的な行動形態として考えることも出来る。
幸福な生活が過ごせるようになるためには何をすべきか。人々との調和を保つことも確かに大切なことだろう。しかしそれは往々にして相手の気を害さないようにという気づかいから
自分自身に遠慮する態度として現れて来ているのではないのか。いや、年を取れば取るほど、相手の感情の動きに自分を無理矢理に合わせてゆくということもしないで
済む、自分の思いのままに生きて行けると考えて、自由気ままに生きているのかも知れない。
自己を無にすることが幸福な生活の獲得に必要なのか? 自分自身はどこへ行ってしまうのか、行ってしまったのか。外国人のヒロに対して、気に入られるようになるべく平穏的な
態度を保持しようとする。でも、夫婦二人で相対する時は別人のようだ。
ヒロは同情などには重きを置かない方ではあるが、同情に値するご夫婦の内的生活状況だと言えないこともない。同情を誘うような生活が送られていたようだし、いまもそのまま
そうした生活が続けられているようでもある。
ヒロはスウェーデンの老後の生活を今、実感的に目撃しているのだろうか。いや、スウェーデンでの老後生活は全部こうであるとは断定出来ないだろう。たくさんある、その一つの例
と言えるだけだろう。
そんな一つの例である生活の中に、ヒロ自身が結果的には好意的に誘い込まれてしまい、「どうぞ、スウェーデンでの老後の生活というものをご自分の目で見て行ってください、
そして、それを誰かに報告したいというのでしたらそうしてみて下さい」と許可を暗黙裏にも得たようであった。でも自分としては少々憂鬱なのである。
以上、この自己流の分析は正しいものかどうかはさて置くとして、東洋からの一日本人がヨーロッパは北欧の、老夫婦の家庭内で一緒に生活を始めてから既に二週間が流れ
去って行った。
東洋人を楽しませよう、退屈させまいと色々と気づかいが感じ取られた。食事、外出、生活の諸方面においてヒロはまるで特別扱いを受けているようだ。その東洋人は、
その家庭内に於いて常に注視の的となっている
。
そんな西洋の家庭において、東洋的な考え方は通用しないものなのかどうか。つまり、無料で、もう二週間も、食事、寝る場所の提供を受けてしまった。
“無償の親切”は時に何かをヒロから要求しているかのように感じ取られ、思われ、考えられる。それは何か? と自問すれば、ご夫婦の単調な、ちょっと不満かも知れない、
そんな生活に対してヒロが活を入れる、変化を、気晴らしを、喜びを与える役目を無言にも授かっているということらしい。
そのためにもヒロはスウェーデン語を喋らなければならない。
―― お前はスウェーデン語での話し相手に指名されている、だからその使命を果たせ。
おい、口を開け! もっと頻繁に口を開け。
スウェーデン語をもっと喋れ!
自分のことばかり考えるな!
もっとご夫婦のことに気を使え!
しかし、毎日、毎時、ご夫婦の注視から外さないように自分自身を処して行かなければならない。
そんなふうに感じられて来るヒロの役目が時に重荷と思われ、そんな状態から逃走、逃亡したいという思いを弄び、本当にそうしたいのかと自問すれば、
そんなことはできないだろうと返事が戻ってくる。ヒロは期待されているのだ。
抑えようとすること自体、遠慮していることの証左だ。何故遠慮しなければならないのか? 東洋的な、日本人的な、相手に対する思いやりが働いているから?
ここから出て行こうか? 出て行けない? 薄情な行為に出ることは良心が許さない。いままでのご好意に対して無碍なる行為に出ることは出来ないと思っている。
それではご夫婦と一緒になってこれからも悩むしかないのか。
相手から受けている無償の行為に対する、自分自身が感じていると思われる“弱み”からなのか。ご夫婦を喜ばせる対象となっていなければならない。ご夫婦を楽しませ、
退屈にさせてはならない。飽きらせてはならない。自分のことは極力抑えてご夫婦に奉仕しなければならない。一歩退いて考えてみれば、そういうことだろう。
言葉のクロスパズル 」