Hej!
Hej!
コック長が先に声を掛ける時もあれば、ヒロの方が先に声を掛けることもある。その時の出会いは同時に掛け合うといった方が正確な時もある。
それだけである。両者間に言葉が更に続いて交わされることは殆ど無い。朝の、短い挨拶を交わすだけ。お互いに同じキッチンに来て、仕事の内容は違っていても、働く立場にはある。
ヒロは洗い物の準備に向かったり、トイレに向かったり、ヒロにとっての今日一日の仕事の準備をする。それも約一時間ほどの時間
が掛かる。
午前9時前後、皿洗いの女の子達がやって来る。トーストとコーヒーの準備が彼女達によって行われる。仕事の仲間達はヒロを含めて皆、食事室へと向かう。モッドがやって来る。
ヒロは彼女に会えるのが楽しみになってしまった。しかし、我々二人の朝の出会いは、その日その日によって異なる。
彼女はヒロの名前を発音出来ない。ヒロの名前を呼ぶ代わりに、彼女はヒロにとっては森の中の鳥になる。大きなキッチンだ。どこに
ヒロがいるかはそう簡単に見出すことはできない。その意味では色々な料理用の器具等もあって森の中の混雑振りのようでもある。彼女は鳥を追う女狩人と言ったところか。
「ホーホオー」
彼女のヒロに向かっての、朝の挨拶である。彼女はヒロに応えて貰いたいらしい。が、ヒロは一度では応えない。何らの反応も得られない彼女は繰り返す。
「ホオーホオー」
ヒロは彼女に向かって同じようには応えない。ホオーホオーとは言わない。
ヒロは彼女が出勤してきていて、今日も一日一緒に働けるという考えに一人満足感を抱きながら、ほくそえみながら、見えない所で相変わらず自分の仕事を続ける。
そうしながらもヒロは彼女に会って見たくなる。彼女はレストラン、別の一隅で多分、コーヒーの準備をしているのであろう。あんな風に呼び続けていたからには
ヒロに用があるに違いない。そんな風に思われてくる。そう思い始めると、ヒロは仕事をそのまま続けていることが何か、彼女を無視しているかのようで落ち着かない。
彼女の所へと仕事の手を休めて行くのである。
Hej!
彼女に向かって声を掛ける。
Hej!
彼女は応える。そして続ける。
「どうしたの? あんた、今日は内気なの」
彼女は明るいダイダイ色と白色の格子縞のワンピースを着ている。ノースリーブ。カウンターの奥の方、椅子にどっかりと腰掛けてタバコをゆったりと吸っている。その様子は酒場の女給仕を連想させる。
朝の静けさの中、すぐ横にはコーヒーの一滴一滴、ポタリ、ポタリと音が聞こえるかのようにフラスコの中に落ちている。
「どうして?」
彼女に聞き返す。
彼女は別に、といった風に質問には答えず、そのままコーヒーが出来上がるのを待っているかのようだ。
ヒロは思い出した。今度はヒロの番だ。先日、午後の小休止の時、彼女は
ヒロの背中に氷の塊を一個入れようとヒロと争った。ヒロは抵抗した。インゲラが涼しそうな顔をして我々二人、男と女の戦いを眺めていた。
モッドの腕力、何と強かったことか! 腕力に屈してしまった。
「助けてくれ!」
ヒロは叫んだ。
インゲラは腰を降ろしたまま、思わぬ出来事が見れるのを楽しんでいるかのようであった。笑い出してしまうのを押さえたような涼しいそうな顔。氷の塊は
ヒロの背中に入れられてしまった。ヒロは咳き込みながら椅子に腰掛けた。女性二人の笑いを誘った。
ヒロは密かに氷のかけらを取りに行った。先回のお返しだ、復讐だ。
何気なく彼女、モッドの前にやって来る。
「何をしているの?」
彼女に悟られないようにそれとなく聞く。目の醒めるような色物のワンピースは彼女の肌にぴったりと張り付いているようで氷の塊を入れる間隙がない。それでも襟首をつかんで機会を捕らえて入れようと
する。彼女は気付いてしまった。用心し始めた。
諦めずに何度も機会を窺っていた。そしてとうとう成功するのであった。ヒロはすぐ彼女の前から姿を消した。やってしまった後で少々後悔した。悪いことをしてしまったのではなかろうか。ふざけあうにも程があってしかるべきだろう。彼女は何歳か年上である。年上の女性に対して礼を失した振る舞いをしてしまったのではなかろうか。
コーヒーを作っただけで食事室には現れなかった、その日の彼女。ヒロの危惧は募った。ヒロは朝食を取りながらも彼女のことが気に掛かった。どうして朝食に来ないのだろう?
食事を終え、仕事場へとひとりで戻って行く途中、壁の曲がり角、
ワアアアアッ!
突然の大声に愕きたまげて腰を抜かしてしまった。床にひっくりかえってしまった。壁の反対側で待ち伏せしていたとは!