今日も仕事が終わった後、図書館にやって来た。
昨日同様、ヘミングウェイを読み始めた。いい文章なのだろう。
ヒロがヘミングウェイの文章を好んで読む最大の理由は何か、と言えば、
やさしい英語で書かれてあり、ヒロの持つ英語力で理解が可能だということ。
勿論、文章がやさしいだけがヘミングウェイを読む理由ではなかろう。
確かにその文章は読者を惹き付ける何かがある。
読み始めるとそのまま読み続けてゆくことになってしまう。
途中で読むのを中断、または放棄することが惜しくて
最後まで読み切ってしまおうと意気込んでしまう。
不満だ。確かに不満なのだ、何だか良く分からないが不満なのだ。
不満の原因は何処にあるのだろうか。仕事の単調さ。
そういう風に感じ始めてきたということだ。
同じプロセスの繰り返し。洗って、洗って、洗って、、、洗いまくっている。
いつまでも限りなく続けられる。
仕事それ自体だけに没頭出来なくなってきたのだ。
新たな欲求、関心が生じてきた。
黙々と両手を動かしているだけの動作によくも飽きずにいられるものである。
そんな単調性を打ち破り暫く忘れて入れるのが昼休み、昼食時間だ。
一人で取る昼食はそんなに美味とは思えない。
簡単に済んでしまうし、いや、そうじゃない、済ませてしまう。
昼食後、休憩室の簡易ベッドの上、仰向けに寝転がっている。
消化を助けるために寝転がっているとも言えるし、
何もすることがないのでただそうしているだけなんだとも言える。
このまま休憩を何時までも続けられれば良いのだが、
と希望的な観測、でも休憩時間は限られている。
時間が来れば起き上がって持ち場にまた戻って行かなければならないことは
重々承知している。体全体が良く理解している。
昼食が済んだ後の午後からも単調な仕事がヒロを待っているのだ。
彼等スウェーデン人達はコーヒーを飲みながら談笑している、
その直ぐそばでヒロ一人、洗い物を続けていた。スウェーデン語を
自由に繰れないが故の耐えなければならぬ情況なのだと少々自分を無理矢理に納得させ慰めている。
でも、何がそんなに楽しいのだろう? 朝の、コーヒー時間の長いこと。そして午後の、
ヒロが不参加の、コーヒー時間の苦いこと。
その場から逃げ出したくなるほどに耐えがたいものではないが、
気分の良いものではない。心が外からギュッと締め付けられることに反発を感じて抵抗を試みる。
つまり何も感じてはいないのだと無理やりに自分を変に納得させてもいる。
そう言えば、めがねを掛けたあの彼女、話すのを聞いたことがない。
いつも口を閉ざしたままでトーストにバターを塗り、チーズを乗せ、
それを口に運んでいる。ボーイッシュな彼女も余り話さない。
英語が話せるということらしいが、まだ直接話したことがない。
それに朝の出勤、入り口前で会ってもよそよそしい。
「あんたなんて知らないわ。
何? あんたもここで働いているの?
知らなかった」
そんな風な彼女と朝のコーヒーの時間、真向かいに顔を合わせた。
変な感じ。顔を合わせても見なかったことにしようというお互いの了解が
暗黙裡にも取り交わされているみたいだよ。取り交わした覚えはないし、
実は別に何もないのだが。スウェーデン人は人見知りするのか。
ヘミングウェイの文章を読んでいると、自分でも書けそうだという気持ちになる。
不思議だ。自分も英語で何らかの短編が書けるのではないか、そう思ってしまう。
自分の英語力でも書けるのではなかろうか、何か書いてみようか。
どうしてこうもやさしい英語で、こうも巧みに表現ができるのだろう。
文章が生き生きと輝いている。息づいている。
愚問かも知れない。贅沢な悩みかもしれない。日本語で書こうか、それとも外国語で書こうか。
出来ることならば両方で書ければ最上だろう。スウェーデン語でもいつかは書いてみよう。
語彙がないとか、不足しているとか、そんな愚痴を並べる前に、
とにかく持っているものだけで最大限利用して試みるべきだろう。要は書くことだ。書かねばならない。練習だ。